古建築研究会掲示板・・・古建築をおもしろく 

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350ーー電動工具  投稿者: いわたろう  投稿日:10月 2日(日)12時32分18秒
無垢材の材木は、一度に同メーカー同ロットで買わないと皆サイズ違いで困ることが多々あります。同じ管柱でも、材木屋さんにくる前に同じ問屋さんが同じメーカーから同時期に仕入れたものでないとサイズが揃いません。 曲がったものものもあります。 そういうときに電動工具カンナは活躍してくれます。 昔の大工は、さぞかし大変だったろうと、普通の仕事を始める段取りに我々より数倍手間かかったろうなと思います。 15年以上前は、ビスが便利なのは解かってましたが、値段が高いのとまだまだ改良しないと使いづらい面があるのと使いやすい、電動インパクトが普及していないため、7〜8年前は、インパクトとビスよりも玄翁と釘の方が半々よりか主流であったと思います。 充電式のインパクトが出てきて且つ、電池も毎日バリバリ使っても1年以上持ち、充電時間が15分でかつ、電池を痛めず早く充電する為の電子制御回路によるものが出てきたのがこの3〜4年。 ここらから一気に普通の建築大工の間でベテランの大工でさえも玄翁を捨て去る方が増えました。(捨てはしませんが・・・) 店舗大工さんたちは早くからインパクトを使ってました。 ベテランはさらに狡猾です。 ちょい仕事やコードを引きずると怖い屋根上などには充電式をつかい、そうでない場合は、電池が弱くなり交換すると1個1万円す前後するのでコード式を上手く使ったりしながらやってます。 電動工具メーカーもどんどん便利なものを出してきています。 ただ、基本的な技がなく電動工具を振り回している人をみるとみっともなく感じています。 両方できるけどこの場面は電動工具でとか考えて使いまわしている感じの人はかっこいいなと感じます。 顧問先の水道屋さんが、マキタの最新式のインパクトを買いましたが、はっきり言いまして余計なお世話なんですが道具がかわいそうです。 1流メーカー製のインパクトは、ユックリ序々に回せますし、且つ確実に力をビスに伝えることができるからPROが高い金を払い使っているんです。 とても小さいビスやねじも着実に思ったとおりに回せます。 水道屋さんの使い方なら、ホームセンターの1万円前後ので充分です。
話はそれてしまいましたが、現場に行くごとにいろんな職人さんが色んな新しい道具を持ってきたりしていますので、いろいろどんどん変わっていくなーーと感じています。
349ーー四天王寺・焼亡と再建の歴史  投稿者: 管理人  投稿日: 9月25日(日)21時05分50秒
 聖徳太子が創建した四天王寺伽藍の歴史は焼亡と再建の連続です。ネットで調べた歴史によると、戦国時代以降でも織田信長の石山本願寺攻めの折に戦場となり、壊滅的な被害を受け、伽藍再建の諸国勧進が行われ、豊臣秀吉からも寄進を受けましたが、再建が実行されたのは秀吉亡きあとの慶長5年(1600)のことです。再建伽藍も 慶長19年(1614)の大坂冬の陣で大坂方の放火に遭って炎上焼失しました。その後、元和4年(1618)より再建され始め、元和9年(1623)に完工しました。この元和再建の伽藍も、享和元年(1801)12月5日の雷火によって焼失しました。しかし、その度、庶民の力により再建され、12年後に町人の財を集め、文化10年 (1813) に再建落成をみました。その建物も昭和9年の台風により被害を受け、昭和15年京都大学教授の天沼俊一氏の設計により再建されたが昭和20年に米軍の空襲により炎上してしまった。
 戦後、多くの社寺が火災や台風、経年の被害により破棄され、新築再建されました。その建物の設計の中に建築史を研究してきた大学の教授の姿を見ることが出来ます。四天王寺、成田山新勝寺の他、戦災や火災により亡くなった伽藍の復興に鉄筋コンクリート造が多く見られます。私の尊敬する建築文化史家の一色史彦先生は常々、文化財保護法の保存技術の保存法を批判しています。かくも多くの鉄筋コンクリート造の社寺建築の半分くらいが伝統的な木造建築で再建されれば、技術の保存などを言わなくても伝統の技術が伝わるのにと言っています。時代の要請による不燃の技術も必要であるが、聖徳太子が中国の技術を招来した日本の伝統建築技術が廃れてしまうのは本当に残念であります。茅葺屋根もそうですが使われない技術は廃れると先生は言っています。人間国宝を作るより、職人に仕事を与えた方が伝統技術の保存に役立つと言っています。「住めば都」さんの大阪の四天王寺の報告を見て、民衆の力は絶大だと感じました。何度焼けても再建は可能です。その力が日本文化の維持に役に立ったのだと思いました。
348ーー大阪の四天王寺  投稿者: 住めば都  投稿日: 9月22日(木)22時14分58秒
大阪出張で少し時間があったので、四天王寺へ行って来ました。丁度、お彼岸会の期間で、中高年層の女性(俗に言う、大阪のおばちゃん)を中心にすごい人出でした。東京付近で言うなら、浅草と成田山と巣鴨の刺抜き地蔵を一緒にしたような感じで、庶民的なお寺でした。
しかし、飛鳥時代に聖徳太子創建の官製としては日本一古い大寺でもあります。四天王寺式と呼ばれる伽藍配置で有名ですね。びっくりしたのは、寺の境内が相当ひろいだけでなく、その周りに様々なお堂や諸施設(寺の事業としての学校、病院、福祉関係の施設)があって、巨大な曼荼羅図のような小宇宙的仏教世界があることです。
仏教寺院の初期の形態が脈々と継承されている印象を持ちました。タイのお寺では今でも、この雰囲気がありますね。
四天王寺の金堂、講堂、五重塔は、何度も戦火などで焼かれていますが、その度に再建されているそうです。現在のものは、戦後耐震耐火の鉄筋コンクリート製ですが、それは特に気にならないほど、庶民に親しまれていました。
宮大工さんたちには、ぜひ、長く人々に親しまれる建築物を作っていただきたいと思いました。
大阪に行く機会がある方は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンばかりでなく、1400年の時空を超えて、今も、そしてこれからも存在し続けるであろう四天王寺を見てきてください。観るだけなら無料ですから。亀が好きな人は境内の亀池が必見です。
347ーー大工の地位向上について  投稿者: 大森 健司  投稿日: 9月18日(日)22時25分58秒
古建築研究会の掲示板で「高名な宮大工の孫」「いわたろう」と言って掲示板に意見をいっておられる方がいます。私のホームページに「藤巻」、「いわたろう」という人が意見を言っておられます。
私は住込みの小僧から宮大工をはじめ、やっとの思いで一級建築士をとりました。
独立して今日までお足をいただいて来ました。
● 早く技術を取得して、私以上の宮大工を育てたい。
● 私を育てて下さった指導者の技術を次の世代に伝承する。
以上のことを考えて、木造伝統技術伝承教室を開設しました。
更に
● 欠陥住宅の出現には大変驚く。
● 全国欠陥住宅ネットができる。(関東ネットの会員です。)
● ユーザーからの相談が来ている。
   ホームページにある欠陥工事写真と同じ工事がたくさんあると。
● 一度も住んでいない完成した家(引き渡し後の欠陥、手抜の家)
● 大工とは(大工の技術者としての誇り)
以上、ホームページに出しておりますので、ご高覧下さり、掲示板にご意見を書いていただければ幸いです。
木造伝統技術伝承教室 主宰者
宮大工 大森健司 一級建築士
http://www2.tba.t-com.ne.jp/oomori-kida/
346ーー竹中大工道具館  投稿者: 住めば都  投稿日: 9月 5日(月)19時15分57秒
竹中大工道具館のホームページを見つけました。のこぎりの起源など、大工道具について勉強になります。
http://www.dougukan.jp/index.html#index
345ーー大工道具と鋸の起源は  投稿者: 管理人  投稿日: 9月 4日(日)23時23分1秒
前述の「道具と手仕事」に村松先生は鋸の「現物が出土するのは三世紀から七世紀にかけての古墳時代」と書かれています。村松先生の本にはこの時代に出土した鋸はほとんどが20センチ程の長さで建築に使えるものではないそうです。ずえが谷古墳群のお近くにお住まいならば、ずえが谷古墳群は兵庫県にあるそうなので是非、神戸市にある竹中大工道具館を見学してみて下さい。竹中大工道具館の設立に村松先生は貢献していますので資料があると思います。また、古墳時代の鋸が展示してあるかも知れません。
344ーー大工道具と鋸の起源  投稿者: 好古学者  投稿日: 8月30日(火)20時00分23秒
「ずえが谷7号墳からは、珍しく鋸(のこぎり)が出土した。 ...」なる記事をネットで見ました。 どんな鋸だったのでしょう。
343ーー大工道具と普及の時代(2)  投稿者: 管理人  投稿日: 8月28日(日)21時31分44秒
 村松先生の調査によれば秋田の民家でも特に見栄えを求めるところにしか台鉋が使われていないということです。しかし、台鉋の普及はもっと早いのではないかとも言っています。建築に使われるの遅かっただけで指物や樽、桶などの木工品の世界ではもっと早く使われていたのではないかと考えられているそうです。小さなもの、厨子や箱物などには室町時代から使われ、工芸品に近い神社本殿などにも早くから使われたが大きな建築に使われるようになったのは慶長頃まで下がらないと見ることが出来ないと云う。
 建設業界で伝統の日本建築と言っても、台鉋が一般民家に使われたのはせいぜい200年くらいの歴史しか無いことが判ります。大鋸も江戸のように材木の需要の多いところでは利用されたが、地方ではそれほど利用されず、古代よりの木を割って製材していたのではないかと思われます。それが明治になり、技術の利用の自由化により、使われ始め、流通の近代化により地方で製材し、中央に持って行くことが可能になり、全国で使われようになったと感じられます。
342ーー大工道具と普及の時代  投稿者: 管理人  投稿日: 8月28日(日)21時26分35秒
今、「道具と手仕事」 著者 村松貞次郎を読んでいます。文化財の修理工事報告書から読み取ると、今、普通に使われている台鉋が民家では天保と云う江戸時代の末期でも一部にしか使われなかったということです。
341ーー埋蔵文化財と建築史家  投稿者: 管理人  投稿日: 8月20日(土)23時43分3秒
日本全国で沢山の遺跡が埋蔵文化財として調査されていますがその調査には建築史家が参加している例は少ないようです。最近は少しづつ、参加を求められているようですが圧倒的に少ないことに間違いはありません。埋蔵文化財の調査報告書は建築の文化財修理報告書の数十倍でています。当然と云えば当然なのですが建築は火事や地震、台風、大水、崖崩れなどの被害を免れて、また、被害を受けても維持、修理されて、残されたものだけが調査されますが、埋蔵文化財は火事や地震、台風、大水、崖崩れなどの災害を受けて埋もれたものが調査対象になります。
 このような資料が何処にあるかと云えば、全国の図書館の郷土資料の中に置いてあります。
340ーー地方の時代  投稿者: 管理人  投稿日: 8月20日(土)23時09分9秒
鎌倉時代から室町時代は地方に時代というべきでしょう。それまでは地方の利益が中央に移され、地方に文化が残らない時代でした。鎌倉時代に武家の都が鎌倉に置かれ、中央に送られる利益が鎌倉と京都に二分されました。また、南朝、北朝と分裂して、中央の力が衰えた室町時代はまさに地方の時代です。今、全国に残る文化財の多くがこの時代以降に作られたものです。中央は「地震、飢饉、疫病の類がおおく、あまりの悲惨」だったが地方に富が蓄えられて、戦国大名が育ってきたと考えられます。地方の時代はまた、文化の時代でもあるのです。今日、日本文化と云われるもののほとんどがこの時代に源を発しています。有名なのでは茶、生け花、能、狂言、歌舞伎、等々です。一般民衆は京都や鎌倉にだけ住んでいたわけではないのです。中央が富んでいる時は地方は貧しく、地方が富んでいる時は政治が乱れているのです。
339ーー管理人様お教えいただきありがとうございます。  投稿者: いわたろう  投稿日: 8月20日(土)21時34分7秒
いろいろありがとうございます。 堂宮建築はあこがれであり、挑戦課題です。 40になりますが現場として携われないのでせめて設計や歴史をわかろうと普段から研究に没頭中です。 日立風土記の丘は埼玉から行きやすいので明日見に行きたいと思います。 いろいろありがとうございました。 これからも色々お教えくださいますよう。
338ーー常陸風土記の丘  投稿者: 管理人  投稿日: 8月20日(土)21時16分32秒
いわたろうさん
 書き込み、有り難うございます。常陸風土記の丘の建物は常磐高速道路を作る時に壊された「鹿の子遺跡」にあった柱跡を参考にした「想像」復元です。堀立柱の建物は現物が残っていないので、技術の発展の段階、社寺建築等の技術水準から推定したものです。しかし、古代からの絵画資料もあるので現物と違うと云うことも出来ません。参考資料として「常陸風土記の岡」を見学することをお薦めします。鹿の子C遺跡は国衙跡からも近く、蝦夷征討のための武器工場であったと考えられています。建物もその当時としては最先端の技術で建てられたと思います。もし、その頃の建物が本当に残っていれば国宝にるでしょうね。関東地方に残っている建築で一番古いものは鎌倉末期(足利の鑁阿寺)といわれています。
 常陸国風土記にある中世の民家は兵庫県にある箱木家住宅の模型だそうです。箱木家は日本最古の民家といわれ、畿内中部の四間取り民家の原型とされています。常陸国風土記には会津から移築された民家や県内から移された長屋門もあり、行って損はしないと思います。
337ーー鎌倉や奈良の民家がのってました。  投稿者: いわたろう  投稿日: 8月19日(金)22時21分27秒
http://business2.plala.or.jp/fudoki/kodaikaokuhiroba_1.htm
たぶん奈良時代は掘建ても多かったと想います(薄学ゆえ根拠なし)
336ーー中世の民家みつけました。  投稿者: いわたろう  投稿日: 8月19日(金)22時09分45秒
http://www.ibaraki-fc.jp/detail.php?item=5&id=332&type=2にあります。
たぶん豪農か商家のものかと?
335ーー続き  投稿者: 高名な宮大工の孫  投稿日: 8月19日(金)22時00分4秒
さきほど
「私の知識は学者ではありませんので「遺跡の発掘からは多くの堀立柱の痕跡を見ることが出来ます。それを考えると江戸時代に入るまでは一般の民衆は堀立柱の建築に住んでいたものと考えられます。」 で終わって失礼致しました。 質問させていただこうとしたのは、鎌倉時代から江戸時代の掘ったて柱建築の変遷について万が一ですがもし資料などありましたら、お教えくださいますよう。 追記、高名な宮大工の孫というペンネームはいかついので以降やめさせていただこうかと想っております。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuga/rekisi/busikurasi.htm
334ーー鎌倉時代より江戸時代の建築について  投稿者: 高名な宮大工の孫  投稿日: 8月19日(金)21時52分54秒
拝啓管理人様
色々古建築を調べてゆくうちこのすばらしいサイトへ辿り着きました。 これだけ大掛かりな又、情報量のあるサイトは他にないのではととても嬉しくありがたく想っております。
初学者的質問で恐縮ですが、前スレで「遺跡の発掘からは多くの堀立柱の痕跡を見ることが出来ます。それを考えると江戸時代に入るまでは一般の民衆は堀立柱の建築に住んでいたものと考えられます。」と書かれておりますがどのくらいの割合で掘ったて柱の民家があったのでしょうか?
鎌倉時代の武士の家と民家が(代表的なものではないかもしれませんが)以下のサイト煮載っておりますhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuga/rekisi/busikurasi.htm
薄学ながら鎌倉時代は、地震、飢饉、疫病の類がおおく、あまりの悲惨さゆえ、鎌倉新仏教が諸派出現した時代でもあります。大抵の庶民は、管理人様の言われるようにまともな住居に住める状況でもなかったとは想います。
私の知識は学者ではありませんので「遺跡の発掘からは多くの堀立柱の痕跡を見ることが出来ます。それを考えると江戸時代に入るまでは一般の民衆は堀立柱の建築に住んでいたものと考えられます。」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuga/rekisi/busikurasi.htm
333ーー衣料の変遷と建築  投稿者: 管理人  投稿日: 8月14日(日)20時37分23秒
 建築のデータを集めていくとおぼろげに見えてくるものがあります。それは指定文化財の民家、及び住宅の量の時代分布です。現在、文化財に指定されている民家で江戸時代より前の建築が無いという事実です。建築を大きく分類すると
1・内裏、城郭などの公共施設。
2・神社・寺院の宗教建築。
3・民家など、人の住む建築。
以上の3つに分けることが出来ます。室町時代以前の建築で文化財指定の9割以上は2の宗教建築です。人の住む為の住宅は数えるほどしかありません。有名なのでは法隆寺伝法堂(橘夫人(藤原不比等夫人、光明皇后母)の住居と言われている)や元興寺の建築(僧坊を改築したものと言われている)など、あと幾つかはあると思うが一般の民家はほとんどありません。多くの人が生活をしていたのだから、住居が無いことはありません。遺跡の発掘からは多くの堀立柱の痕跡を見ることが出来ます。それを考えると江戸時代に入るまでは一般の民衆は堀立柱の建築に住んでいたものと考えられます。現在、復元されている竪穴式住居を見ると構造材は釘を使わず、木と縄、蔓、木も丸太を使い、屋根は茅葺きです。屋根の部分は茅葺きの建築と同じです。多分、弥生時代の頃から茅葺き屋根の構造は変わっていないだろうと思います。
 それが江戸時代になって変わったのだと考えています。その変化の原因は着物の材料の移り変わりと建築道具の進歩だと思っています。技術の発展が世の中を変えたと考えられます。
 まず、大工道具ですが室町時代の中期頃に大鋸と台鉋の出現です。これによって製材が楽になり、建築資材を多く生産出来、建築行程の短縮が可能になったと考えられます。大鋸も最初は輸入していたものが戦国時代を経て、江戸初期には国産化されたと考えられます。
 つぎに衣料ですが衣料も室町時代から変化してきます。室町後期より綿花が栽培されるようになり、江戸初期にはかなり普及したようです。それ以前は麻が主流でゴワゴワしていたようです。建築の関係で考えると暖房との関連です。
 竪穴式住居は冬場は結構快適だと言われています。建物の中で火を焚き、地面に藁を敷けば冬でも暖かく過ごせるようです。竪穴式住居、堀立柱は欠陥もあります。柱を地面に穴を掘り、埋め立てる為に地震には強いのだが、地面と柱が触れる部分が腐食しやすい。寿命は柱の太さにもよるが20〜30年だそうである。伊勢神宮のように式年造替する風習は堀立柱の影響と考えられています。
 時代の変換が考えられるの江戸時代初期、世の中も平和になり寛永時代には絹は贅沢だから、一般庶民は木綿を着るようにとのお触れ(寛永5年)が出ています。それだけ木綿が普及したものを考えられます。文化財保存されている民家もこの時代から出始めます。本格的に普及が始まるのは寛文、延宝期と考えられます。ここから先は想像ですが平和になり、寛永時代建てられた建築は沢山あると考えられますが、寛文頃にその寿命が分かれたのだと考えられます。寛永時代に先進の技術を使って建てられた礎石建ち(土に触れないように礎石を置き、その上に柱を立てる)の民家は残り、それまでの技術を使った堀立柱の民家は次々に立て替えられ始めたと思うのです。その時、多くの人達は次の建築を建てる時にどちらを選ぶでしょうか。今、民家で文化財で指定されているもので建立年代の判明しているものは延宝期のものが多く見られます。茨城県でもかすみがうら市の椎名家(国指定)、古河市の中山家(県指定)が延宝期の建築です。
 衣料との関係ですが木綿が普及すれば布団もこの頃から普及し始めたのではないでしょうか。礎石建ちの建築は柱を腐らせない為に地面近いところは風通しを良くします。そのため床を張り、その上で寝るようになる。寒さを防ぐ為には贅沢でも綿の布団が必要になり、その上の贅沢は床の上に畳を敷き、そこに布団を敷けば、寒さをしのぐことが出来ます。一般庶民に布団や畳が普及したのは享保期以降と考えています。全国的に文化財として、残されている民家の多くはこの時代が多く見られます。
332ーー新建材に関する随想(古建築の再評価によせて)  投稿者: 高名な宮大工の孫  投稿日: 8月14日(日)02時15分33秒
古来より、「住宅」とはハイテクの結集体であった。気候風土に基づいて、身近で低廉なる自然素材を選定し、合理的長期使用を実現してきた。わが国では、四季を鑑み、台風と地震に対応した住宅が経験と英知によって生み出された。木材、葦、石、土といった天然素材を利用し、囲炉裏を中心に据え、料理と暖房の両面からエネルギー効率を図り、立ち上がった煙は、木材や葦を燻し、防虫効果と耐久性を生み出した。その一方で、就眠時に蓄えられた湿度は、布団から畳を通じて床下に放湿される。土壁も呼吸し、不快指数を低減させた。雨露を凌ぎながら、天災を含めた自然と共存し、快適空間を創造する工夫が細部に至るまで合理的に張り巡らされていたのである。自然と共生する事によって、そのエネルギーを合理的に利用するしたたかさは、科学的であり、示唆に富んでいる。
しかし近代に入り、人工密集による延焼防止の為、不燃性建材へ移行し、空調による人工的な快適性の為、気密性重視が打ち出されたことによって天然資材を利用した住宅は終焉を迎えたが、これらには刮目すべき科学性が潜んでいた。
日本の伝統的な木造住宅を見ると、開放性、つまり風通しの良さという大きな特徴を持っていることがわかります。これは日本という国が木材資源に恵まれていたたためで、西欧の砦や城郭などのように石材を使用せず、土地にあった木材を用いて構築したからと考えられます。
例えば、石材やレンガが主な材料である国などは、構造材料の差を建築形体の異なる要因とするところもあるが、それは単に手段の違いであって目的の違いではありません。もし、西洋が日本のような高温多湿の気候風土にあって、石材やレンガが必然的にあったとしたら、もっと違った住宅の形体や暮らし方が存在していたでしょう。わが国の古文「徒然草」の第五段に語られる、「......家のつくりやうは夏居を旨とすべし......」。これは日本の「風土」のあり方を端的に表現しているように思われます。
日本の四季からいっても、冬の寒さはむしろしのぎやすく、夏の蒸し暑さを避ける家が最上とされてきました。「衣・食・住」つまり、住むこと、保存し食べること、そして十二単に代表されるように重ねて体温を保つこと、これはすなわち衣の世界です。
わが国の歴史的建築物を見ると、外壁、間仕切り壁、柱と柱の間はそのほとんどが障子や襖になっています。この開放的な考え方はどこからきたのでしょうか。「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があるように、耐えるという精神文化こそが日本人のすべてであるように思われます。それは、彼岸まで辛抱すれば、あとは桜、新緑の候、そして夏を経て、紅葉の秋という夏を中心においた一年のサイクル、つまり四季をとおした生活、暮らし方が基本になっていることを意味していたのではないでしょうか。それは、自然に対する畏れより、自然を愛でる心を大事にしてきた日本の文化。借景というように屋内に居ながらにして自然と接するという思い。そしてすべての万物に神々が宿ると信ずる信仰心など、自然と融合、共生した生活感こそが日本人としての国民性の根底にあったに違いありません。
新建材のメーカーも日本の気候風土精神文化を離れた商品開発は行っていないということでしょう。
331ーー土佐さん関連随想  投稿者: 高名な宮大工の孫  投稿日: 8月 7日(日)11時48分2秒
日本の建築は、主として木(木加工2次製品)言い換えれば「木(こけら・桧皮・和紙・茅葺含む)と土(瓦・土塗り壁・土倉・漆喰含む)」の文化であった。 建材の種類が限られていたから頭領や棟梁(いわゆる社長含む)は、設計(設計監理・品質管理・安全管理)、現場監督(建設管理・施工管理)を以前は兼ることができていた。 ところが近代西欧建築・現代建築(RC・S・新建材・電気・設備・専門工法・専門業者等)の台頭は、主として現場労務者ではない多能的管理者即ち職人あがりではない「建築士制度」を要求した。 その結果頭領や棟梁の仕事が「設計」「大工」「現場監督」の3者に分業化されたんだと想う(私も含めもちろん建築士で大工や頭・棟梁の方はいますが・・・)。 そして今現在時代と技術が進み木のみにこだわる必要性もないし特に都市部の特定建築物等の防火防災要求から構造材として木が姿を消しつつある中、昔、清水の舞台等の大架構を実現させた木架構工法の究極として見た場合の堂宮社寺建築技術は、伝統工芸的技術となり、一部の者に引き継がれれば、その年間建築数(極めて少ないくらいしか認識ありませんが)から見て十分と判断されているのだと想う。 古建築保存・再生・継承の場合を除きその工法、研究は学術的にはある程度し尽くされたしその優れた点は歴史が証明した・・・そして生業として宮大工を目指すのは、収入的にも現場数的にも厳しいものがあると想う。 そして宮大工が現代建築最高峰の技術を持っているというのはおかしいと想う。 宮大工の技術は、完全に古い建築の建築継承であり、現代と比べるようなものではないのではないか。 宮大工の「架構」技術の究極は、研究され尽くされた現在、雨と地震の多い日本において重い瓦の載った庇をいかに美しく出すか!そして「倒れないような」木造ラーメン架構をいかに成立させるかにすぎないと想われるからである。 精神論を除いた見解であることを追記させていただきます。 でも私も祖父のような高名な宮大工になりたいんです!! 施工論ですが普通の大工にできないような物を作りたいからです。
330ーー教えてください  投稿者: 映画屋  投稿日: 8月 4日(木)11時34分47秒

突然、失礼致します。
私、映画を製作しております岩崎大と申します。
ホームページを見てメールを送らせていただきました。
現在、準備中の映画で、宮大工の方々が、寺社を修復しているというシーンがあります。再現するのは現実的に無理がありますので、関東一円で、寺社修理をしているお寺そして、施工していらっしゃる宮大工の方々を探しております。
調度、撮影期間の10月〜11月の間に工事があるとなお助かります。
未だ何も手がかりがない状態です。どんな情報でも構いませんので、ご返信頂けないでしょうか?
お手数かとは思いますが何卒よろしくお願いします。

329ーー塩と銭湯と石炭と  投稿者: 管理人  投稿日: 7月28日(木)19時57分9秒
 銭湯の歴史は古く、すでに奈良、平安時代にあったと伝えられています。湯屋と風呂は別物だそうで、湯屋はお湯に入り、風呂は蒸し風呂だそうです。どちらにしても江戸時代以前は燃料が薪であり、高価であった。そのため、江戸の銭湯も湯屋、風呂の部分は天井も低く、中の熱気が抜けにくくするために周りを囲い、最初は戸棚風呂といわれるように熱気が抜けないように引違いの戸がついていたそうです。多くの人が利用するようになると引違い戸は不便で、柘榴口が使われるようになりました。柘榴口は入口を低くして、人はかがんで入ることになります。熱気は上の方に溜まるので、入口を低くすると逃げにくくなることを利用したものです。柘榴口の語源は江戸時代の鏡は曇った時に柘榴の実で磨いたそうです。鏡見ると(カガミミル)、かがみ入る(カガミイル)の洒落だそうです。それでも天井は低く、風呂桶も膝くらいまでしかなく、また真っ暗な中で入浴していました。それが大変換したのは明治時代でした。燃料が薪から、石炭の普及で熱源の不安を解消し、天井が高く、明かりとりもある銭湯が出現したのです。今では数少なくなった銭湯の建築様式はこの頃の明治に始まりました。唐破風の玄関も元は柘榴口の意匠でしたが、柘榴口の替わりに玄関の意匠になったといわれています。
 さて、塩も江戸時代以前は日本全国で生産されていました。日本専売公社の塩の歴史の本に書かれていたのですが、塩はまず海水を溜め、天日や風による蒸発で海水の濃度を濃くし、鹹水を作ります。その鹹水を釜に入れて薪で煮詰め、結晶化します。その為、広大な塩田を作って大量の鹹水を煮詰めることが出来ても薪の手当で行き詰まってしまいます。薪は雑木林から採取しますが採れる量は雑木林の面積に関わります。大量の塩を生産しようとすれば薪を遠くから手当てしなければなりません。遠くから手当てしようとすれば費用がかかります。大きな塩田を作ることが出来ませんでした。そこで江戸時代は日本全体、消費地の近くで生産されていたのです。それが大変換したのも石炭の出現でした。瀬戸内地方は船で北九州の石炭を手に入れることが出来るようになったのです。
328ーーありがとうございます。  投稿者: 大苦見習い  投稿日: 7月16日(土)22時58分26秒
胡粉で検索したところ画材店等で販売しているようですが、それらを使用しているのですね。勉強になりました。
327ーー胡粉では  投稿者: 管理人  投稿日: 7月 8日(金)19時32分47秒
 古くから日本塗料の中では白色は胡粉(ごふん)が利用されています。胡粉は貝殻を焼いたものを粉末にし、膠を接着剤として使っているようです。
326ーー教えて下さい。  投稿者: 大苦見習い  投稿日: 7月 8日(金)14時07分54秒
住宅大工をしています。社寺建築に興味があります。よく、垂木口に白く色が付いていますが、ただの塗料ですか?それとも接着剤入りの塗料ですか?どこでも手に入れる事が出来るのでしょうか?教えていただけますか?
325ーー昔の職人の腕は良かった?  投稿者: 管理人  投稿日: 7月 4日(月)19時33分19秒

 今、雑誌「室内」発行人の山本夏彦氏のコラム集「岩波物語」を読んでいます。この本は氏によると社史はどのような豪華本でも誰も読んでもらえない、と書いてあります。明治大正昭和の出版社、印刷、製版、製本の歴史を記述して、氏の雑誌「室内」の歴史を語っています。
 その中に建具の本「建具のいまむかし」を書いた、粕谷奎三氏の文が出ていました。
「昔は良かったという人がある。ついでに昔の職人をほめ、そのぶん今をけなしていい気分になる人がある。職人の一人として迷惑だ。名人上手の物語は、つくり話か伝説で、腕なら今の職人の方が昔より上だといってきかない人がある」と書かれてありました。
 たぶん、その通りだと思う、素人でも電動道具を揃えれば、玄人並みのものが作れる時代です。プロである職人たちが優秀な道具を使いこなしているはずと思う。歴史を見れば納得がいく、自動車は戦前の技術ではアメリカを超えることが出来なかった。戦後、アメリカ、ドイツの優秀な工作機械を手に入れ、それを超すことが出来た。木工製品も沢山の工作機械が導入された。建築においても多くの機械が導入されています。鋸と鑿だけで加工していた時代より、より良いものが作られているのではないでしょうか。

324ーー五意達者の世界  投稿者: 管理人  投稿日: 6月13日(月)20時06分39秒
前にも書きましたが江戸時代より宮大工と呼ばれる世界は『匠明』の作者平内正信の父親(吉政)が奥書に書いたように五意達者のものに秘伝を伝えるように記されています。
  ◎ 式尺の墨かね(スミカネ)【木割・規矩】
  ◎ 算合(サンゴウ)【積算】
  ◎手仕事【技能】
  ◎ 絵様 【絵図面・下絵・輪郭図】
  ◎ 彫物【彫刻の能力】
 現実の世界ではどれか一つでも優秀であれば、それなりに仕事は有ると思います。
一般の民家建築でも一人で建築するには1〜4までは必要です。今は分業の世界ですから設計する人は設計のみ、手仕事の大工さんはほとんどが雇われ大工です。全体を把握し、資金の調達、材料がどのくらい必要か、必要な人員はどのくらいか、日数の計算等のだんどりの出来る人は数少ないのです。一職人を目指すのか、設計し、全体を指揮する大工を目指すか、または彫物の世界に入るか、土佐さんは何処を目指しますか?
323ーーどうすれば…  投稿者: 土佐  投稿日: 6月 9日(木)02時06分21秒
はじめて書き込みをさせて頂きます。
高校時代より宮大工になりたいという漠然とした思いはあったものの、大学に進学し、そして大学院(経済学)へも進んだのですが、どうしても宮大工になりたいという思いがあり、色々と調べているうちに古建築研究会様のHPへたどり着きました。
過去の掲示板を読ませて頂きましたが、宮大工を志す人への色々なアドバイスを読んでいくうちに、自分のやりたい道への希望が強くなると同時に、自分の年齢(32歳)を考えると、直接弟子入りするよりも、職業訓練学校などに入学し、木工建築の基礎的な道具の使い方や木工建築の構造・建て方といった基礎的知識を身につける方がいいのか迷っております。
皆様からアドバイスが頂ければ幸甚です。宜しくお願い致します。
322ーー天竺(大仏)様のルーツ  投稿者: 沼澤  投稿日: 6月 3日(金)20時33分10秒
天竺様が、重源と中国の工人によって輸入された時代は、平安の終わりから鎌倉の初めにあたります。NHK大河ドラマ「義経」の時代です。当時の中国は南宋時代で、現在の杭州
を中心に文化が栄えていました。中国史は不勉強でしたので、次のサイトで勉強しました。建築技術の記述はありませんが、参考になります。杭州には天台山があり、その寺で修行した僧が帰国して、天台宗を開きました。最澄だけでなく、重源をふくむたくさんの日本人僧が天台山で修行したようです。当時杭州のお寺では、インド様式の建築技法が流行っていたのでしょうか?それを重源は輸入し、「天竺様式である」と後世に伝えたのではないでしょうか。以上は想像がかなり入っていますが、いつか杭州に行く機会があれば、確かめたいものです。あるいは、東大寺の古文書に記録がありそうなものですが。
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-40.html
321ーー日本民家園から講座のご案内  投稿者: 日本民家園  投稿日: 5月25日(水)13時54分10秒
川崎市立日本民家園からご案内させていただきます。当園は江戸時代を中心とした古民家の野外博物館です。今回は、神奈川県内から移築した4件の古民家に焦点をあてて、その特徴・背景を詳しく紹介する講座「古民家の話-神奈川の村-」を開催します。川崎以外にお住まいの方も、ぜひご応募ください。また、今は園内の緑が最も美しい季節ですので、ご来園をお待ちしています。
【日時】7月9日・16日・23日(各土曜日連続3回)【時間】1時半から3時半
【講師】野呂瀬正男(文化財建築技師)外山明彦(日本民家園職員・建築職)
【受講料】2000円  【定員】30名(高校生以上)
【お申込方法】往復はがきに住所・氏名・年令(高校生は学年)・講座名・開催日を記入して送付してください。
【お問合せ】〒214-0032川崎市多摩区枡形7−1−1 電話:044-922-2181 
「お城と武家屋敷」 Castle&Bukeyashiki 〜Samurai Residence〜  投稿者: Yoshiyisa  投稿日: 5月20日(金)21時09分59秒
相互りんく有難うございます。
日本で唯一の全国の武家屋敷を紹介する電子屋敷(hp)です。
なかなか個人の所有物で調査しにくいのですが、
出来栄えは画像が大きいので重いのが問題だが、和風で縦書きで中々のもんです。
古建築を研究されている方には興味がおありだと思います。
http://www.bukeyashiki.net/
320ーー日本の美術 茅葺民家  投稿者: asano-max  投稿日: 5月20日(金)05時42分26秒
文化財保護活動と共に茅葺民家の精密縮尺模型を製作してます。
内部建具の製作 開閉自由 畳はい草を使った模型用を用いてます。茅葺には自然の草を用い5月刈り入れ乾燥保存する季節です 通常製作過程を作者は公開しませんが特別公開してます
現在製作中の重文 吉村家住宅は今秋同家にて展示会予定
http://f59.aaa.livedoor.jp/~asanomax/top.htm
319ーー展示会のご案内  投稿者: 大森 健司  投稿日: 5月16日(月)16時01分2秒

2005・初心展   
書道家 小川 移山氏が主宰する初心舎で多分野の 芸術家による展示会を開催することになりました。
会  場:所沢市民文化センター・ミューズ, 「ザ・スクエア」
〒359-0042 埼玉県所沢市並木1-9-1          TEL 04-2998-6500
西武新宿線航空公園駅下車  徒歩10分(バスは片道 100円)   
会  期:6月26日(日)から28日(火)
時  間:午前10時から午後8時ただし28日は午後6時終了
 
展示内容:書道、陶芸、染色、銅版画、木彫、イラスト、
      写真、堂宮大工等々
      チェコ共和国紹介コーナーも有
●木造伝統技術伝承教室では寺院復原図(縮尺1/20)、 教室生徒作品、木組模型、新潟中越地震被害写真など を展示
主  催:初心舎 代表 小川移山
問 合 せ:大森建築設計事務所           堂宮大工 大森健司 一級建築士
        TEL&FAX 04-2957-3215
出展内容や会場の詳しいことはURLを見て下さい。
     http://www2.tba.t-com.ne.jp/oomori-kida/

318ーー安く直したい  投稿者: goron  投稿日: 5月16日(月)08時45分40秒

 約80世帯をまもる神社が壊れかけております。宮大工さんにお願いすることもままならぬ状況下であるため、地元の大工さんにお願いすることとなりました。直すところは、拝殿する場所の屋根を支える柱2本なのですが、その屋根と柱の間にある肘木?と言うんでしょうか。十文字に組んであるものが、4,5段で屋根を支えております。これはとても作れないそうです。どなたか安く作ってくれるところを知りませんか?。柱2本は取替の予定です。柱2本もいれて60万円前後で何とかしたいと思っております。材質は何でもかまわないのですが。

317ーー大仏様とは  投稿者: 大森 健司  投稿日: 5月12日(木)15時40分5秒
 私がこの世界に入った頃は天竺様と習いましたが、沢山の古建築ファンが増えてくるようになったので、天竺様とはインドのイメージがあるので、学者達が検討し、大仏様式と改めました。大岡實、浅野清、太田博太郎各博士が論じたとお聞きしています。
316ーー大本教を少し・・・  投稿者: 管理人  投稿日: 5月11日(水)22時28分12秒
「山陰20世紀最大の木造」で調べたのですが見つからなかったので、多分「大本教」の建物かと思って書きます。下記のページに
「おそらく弟一次大本事件で、神明造りそのものやったら壊されちゃったんで、あんまり似てるもの作ってまた痛い目に遭うのは嫌だっていうことで、最初っからどう見ても神社ふうには見えない神道ふうには見えないものをおそらく作った。」
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/igarasi/igara7/igara%207.htm
 大本教は初期の頃、神明造など神道の建物に近いものを建てていたようなのですが、建てるたび、弾圧を受けて壊され、段々と風変わりな建築を建て始めたと書かれています。もし、興味がありましたならば研究してみて下さい。
315ーー建築の様式とは異なりますが  投稿者: 管理人  投稿日: 5月11日(水)21時53分53秒
 兵庫県小野市の浄土寺浄土堂(国宝)を見学に行った時に、(このお堂は鎌倉時代の東大寺を復興した重源の建てた唯一の仏堂です)一色先生が仏堂の話をしてくれました。仏教がインドから伝わった時には建築の向きはインドの気候にあった建築であった。インド地方は赤道に近いため、仏教の修行は朝晩の涼しい時に行いました。朝は太陽を拝みながら薬師堂(西向きのお堂、東に向かって礼拝する)で修行をし、夕方は阿弥陀堂(東向きのお堂、西に向かって礼拝する)で修行をしていたといわれます、と言っていました。浄土寺浄土堂も阿弥陀堂です。浄土寺には向かい合わせに薬師堂(西向き)もあります。それがインドより、北方にあって、四季のある中国や日本に伝わると一年中、修行のし易い南向きに変わったと云われています。インドでは修行のできない真昼でも、日本では春、秋、冬は南向きであれば、修行ができるのです。
 また、塔もインドから伝わりました。とは元々はインドではストーパといわれ、中国に伝わり、卒塔婆になりました。インドでは土饅頭に棒を立てたものですが、日本に最初に伝わったのは三重塔や五重塔でした。鎌倉時代になって多宝塔が建てられるようになりました。石山寺多宝培(源頼朝が娘の菩提をねぎらうために建てたと云われています)が最初だと云われています。初重の屋根にある亀腹(漆喰で饅頭のようしてある)が土饅頭の形だと云われています。
314ーー天竺様のルーツ  投稿者: 杉の子  投稿日: 5月 9日(月)08時33分15秒

 仏教のルーツはインドですから、その辺からの話でしょうか、誰か教えてください。

313ーートン族の風雨橋  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 7日(土)20時44分11秒
どんな橋なのか興味がわき、早速インターネッットで「トン族の風雨橋」を検索してみました。なるほど、おもしろい橋です。
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/kishuu/ki8.htm
撮影された写真は建築関係社が撮ったのではないので構造が判りにくかったです。このページには建築途中の写真も写っているので参考になると思います。
312ーー天竺(大仏)様のルーツ  投稿者: 沼澤  投稿日: 5月 6日(金)07時33分20秒
東大寺南大門(鎌倉時代初期再建)は、重源が中国(宋)から連れてきた工人によって立てられたことが、管理人様の書きこみで教わりました。これが天竺(大仏)様の典型ですが、様式や技術は、日本人になじまなかったためか、継続されなかったようです。
その天竺(大仏)様のルーツを考えさせられる興味深い記事が、「サンデー毎日」の5月8・15日合併号(現在発売中)の165ページから5ページにわたって、カラーグラビアで紹介されています。
中国・桂林からバスで7時間北上した三江郊外のトン族の村々には「風雨橋」と呼ばれる瓦屋根の独特の橋がある。石積みの橋脚と瓦以外はすべて「杉木」を使い、釘を使わずホゾで組んだだけのユニークなもので・・・という解説文と見事な屋根つき橋の写真が載っています。その建築様式は東大寺南大門に似ているような気がします。杉を使っているところにも共通点があります。
この地方は南宋にふくまれていたのではないでしょうか。重源に帯同した工人のルーツは、この木造建築の村にあるのではないか、と思った次第です。参考になれば幸いです。
311ーー天竺(インド)様式  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 3日(火)22時37分25秒
最初に誰が東大寺の大仏殿や南大門の建築様式を天竺様と名付けたのでしょうか。明治の人だと思うのですが、直訳すればインド(天竺)様式というのは問題でしょうね。どうも、この建築様式は南中国の様式らしいのです。太田某さんもインド様式というのをはばかったのではないでしょうか。
310ーー東大寺南大門の柱  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 2日(月)18時55分38秒
 建築用語のページを探索していましたら、「国宝建築探訪」のページに東大寺南大門の柱は杉材であると書かれていました。もう、鎌倉時代にも檜の大材は手に入れることができなかったのでしょう。
http://members.jcom.home.ne.jp/chutatsu/kokuho.html
「東大寺南大門には直径1mを越す柱一八本が使われている。この柱の下のほう2mくらいまでは、人 が行き来する衣擦れのせいか、白っぽく磨かれていて、木目がはっきり見えるところがある。この木目 を観察すると、どうもヒノキではなくスギのようである。また割れの入り方が,柱の一ヶ所に集中的に 生じており、柱全面に小さな割れが生じるヒノキの割れ方とは異なる。文化財建造物保存技術協会の話 でも、南大門の最近の修理資材としてはスギのみが使われているとのことであるから、この門の材料は 間違いなくスギ材だと思われる。南大門は鎌倉時代の1199年に建てられたものであるから既に800年を 経過している。スギはヒノキに比べ、強度的に一ランク弱いとされているが、これが今後何年も つのか見守っていきたいものだ。
http://www32.ocn.ne.jp/%7Ekokentik/work/book.html
309ーー大仏様とは?  投稿者: 30歳サラリーマン  投稿日: 5月 2日(月)18時53分22秒
大仏様とは、太田某が勝手に作った造語で、正式には天竺様と言うのではないですか。
308ーーいまからでも間に合うでしょうか  投稿者: 30歳サラリーマン  投稿日: 5月 2日(月)18時50分57秒
こんにちは。
 私は、中学生の頃西岡常一先生の名著、「法隆寺を支えた木」を読んで感動し、大いに鼓舞され、高校へは行かずに、西岡先生のような宮大工になるのだと親にも相談せずに決めて、西岡先生に手紙を書きました。もちろんいきなり弟子にしてくださいなどとは書かず、西岡先生にお会いして、お話を聞きたいという内容でした。
 先生は、つたない中学生の手紙にも、非常に丁寧にお返事をくださいました。もう大感激で、そこには、私は法隆寺の一大工にすぎません、ご面会をご希望でしたら法隆寺を通してください。という趣旨のことがかかれていました。
 法隆寺の絵はがきでしたが、それだけで私はもう大満足で、宮大工になれなくても、西岡先生がここまで歩み寄ってくださったのだと言うことで、胸がいっぱいになったのを思い出します。
その後私は高校へ進学し、会社勤めをして、サラリーマンになりました。仕事は一応建築関係ですが、宮大工さんのされている世界とはほど遠いことをしています。
最近結婚して、今はまだ子供はいません。宮大工の修行をするには、中学を卒業した頃から始めたほうがよいのだと思います。でも、もしもまだいまからでも間に合うのなら、もう一度夢にかけたいと思っています。まだ間に合うでしょうか
307ーー古建築入門講話  投稿者: 沼澤  投稿日: 4月18日(月)20時47分55秒
川勝政太郎著「古建築入門講話」を入手しました。古書店のほームページで見つけ、注文したら、すぐ届きました。インターネットは、便利ですね。
この本は、名著ですね。まだ、10数ページしか読んでいませんが、文章が簡潔で明晰、わかりやすいです。もちろん専門用語は難しいですが、門前の小僧でも、くりかえし読めば、なんとなくわかるかもしれないと思えてくるのは、感動的なほどです。
 著者の川勝先生が、後書きで強調されているのは、「本を読むだけでなく、実地に社寺建築をていねいに見学、鑑賞することが最も大事である」ということです。これは古建築研究会の活動に通じますね。この本の挿絵として、著者によるスケッチが載っていますが、このスケッチを描くことも、ていねいに観察することにつながり、自分の目、頭、手を動かすので、さらに理解が深まると思います。古建築の世界を志望する若い方々には、ぜひ読んでもらいたい本です。
すばらしい本の紹介をしていただき、ありがとうございました。
なお、「古建築の細部意匠」もいずれ入手したいと思っています。
306ーー大工のなり方・・再び  投稿者: 管理人  投稿日: 4月12日(火)20時08分36秒
 田中さん。何時から始めても遅くないと思っています。この掲示板でも何人も同じような質問が有りました。研究会のHPに過去の掲示板の書き込みのログを掲載してあります。是非、一度、ゆっくりと閲覧してみて下さい。管理人の他にも多くの人がサポートしています。これから大工になるのに参考になると思います。
http://www.tsuchiura.org/~kokentik/
 また、学校に行くお金がないとのことですが安く教えているところも有ります。ネットで調べたのですが東京建築高等職業訓練校は授業料は月9000円です。
http://homepage1.nifty.com/kensetu-union/kunrenkou/kunrenkou.htm
 全国に県立の職業訓練校が有ります。ここも授業料は安いと思います。調べてみて下さい。
茨城県では県立の鹿島産業技術専門学院に木造建築科が有ります。
http://business2.plala.or.jp/kasigise/
 全国木材組合連合会のHPに各種の専門学校、認定職業訓練校、私塾の一覧が有ります。企業が設立した学校も有ります。参考にしてみて下さい。
http://www.zenmoku.jp/moku_pr/QandA/ask6-5.html
http://www32.ocn.ne.jp/%7Ekokentik/work/book.html
305ーーはじめまして  投稿者: 田中一樹  投稿日: 4月11日(月)15時20分6秒
 20歳で昔からの夢を捨てきれずどうしようかと迷ってる人間です
どうにかして大工になりたい・・・
しかし学校に行くお金がない
けど人が住む場所を自分も建ててみたい
という矛盾のような気がしますが日々思ってきました。
高校卒業して外の世界を見ようと海外に飛び立ち早2年
今から大工の道(宮大工の道)を選ぶには遅いでしょうか?
アドバイスをお願いしたくこさせていただきました。
304ーー社寺建築様式-3  投稿者: 大森 健司  投稿日: 4月 7日(木)21時26分29秒

 我が国の社寺建築の様式には、「和様」、「禅宗様式」、「大仏様」、「折衷様式」がある。このうち、和様、禅宗様、大仏様が基本であるが、全て中国や朝鮮からの輸入であるのに、和様というと鎌倉時代に禅宗様と大仏様が輸入されると、これらと区別するため我が国で変化を遂げて完成した型となったことで、和様とした。今回は大仏様です。
大仏様(東大寺南大門、浄土寺浄土堂)の特徴
※ 柱は太く、貫で柱を繋ぎ、長押を使わない
※ 組物は柱に肘木を挿したさし肘木を重ねる
※ 木鼻(材木の先端部)に独特の繰形(彫刻)となる
※ 扉は桟唐戸で、藁座で扉を吊る
※ 太い虹梁を多用して屋根を受ける梁組を組む
※ 軒は隅のみ扇垂木を使う
※ 化粧垂木の先端には鼻隠板を打つ
  禅宗様、大仏様とも貫を効果的に使って、構造的性能の向上には大変役立った。装飾彫刻の多用に特徴を持つ。大仏様は重源の死去によって建てられなくなった。禅宗様は主に禅宗寺院のみたくさん使われた。
    木造伝統技術伝承教室 主宰者 宮大工 大森健司 

303ーー一古建築関連の図書  投稿者: 管理人  投稿日: 3月29日(火)21時26分26秒

 私が古建築を勉強する為に読んだ本の履歴を掲載してあります。
これから勉強する人に参考になると思います。
 「古建築の細部意匠」近藤 豊著 は一色先生の紹介で拝読しました。
この本は最後の「あとがき」が本当に面白いです。
http://www32.ocn.ne.jp/%7Ekokentik/work/book.html

302ーー大森様  投稿者: 沼澤  投稿日: 3月29日(火)08時35分19秒
古建築に関する参考書をご紹介いただきまして、ありがとうございます。
さっそく、書店に頼んで取り寄せて、読んでみます。
301ーー古建築を学ぶには  投稿者: 大森 健司  投稿日: 3月27日(日)14時51分26秒
沼澤様
古建築を学び、楽しむ本をご紹介しましょう。
1.「古建築入門講和」川勝 政太郎著 河原書店
考古学の文学博士の著者により、写真と各部位のスケッチでわかりやすく書いてあります。
2.「古建築の細部意匠」近藤 豊著 大河(たいが)出版
より専門的だが、写真や図が多く入り、各部意匠について解説してあります。
これらの本は古建築を学び、楽しむに格好な参考書です。現在市販されているか、調査していませんが、お薦めします。
 
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