古建築研究会掲示板・・・古建築をおもしろく 

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400ーーいわたろうさんへ  投稿者: 住めば都  投稿日:12月 5日(月)12時55分28秒
 大量の資料を駆使しての論考は幅も深みもあって、すばらしいですね。
ただ、すでにご自分で原稿化されているものを、適宜、話題に合わせて引用されているようにも思えます。(間違っていたら、ごめんなさい)。それはそれで結構ですが、この掲示板の読者だけでは、もったいないと思います。
ぜひ、出版していただきたいものです。本になったら、この掲示板でも紹介してください。いわたろうさんの、膨大な知識にもとずく立論を、まとめて、本で勉強してみたいと考えます。
研究の成果に期待  投稿者: 管理人  投稿日:12月 3日(土)22時20分50秒
 魂でかんじるいわたろう(藤巻 巌)さんの構想力と想像力の素晴らしさに恐れ入ります。時空は遥か古代まで遡り、古代人の思いを伝え、空間は遠く中国の奥地まで飛び、地震の恐さを当地まで伝える説得力は驚きます。きっと、古代人の魂を感じることが出来るのでしょう。データを駆使する解析力、情報の調査能力は日本建築史の定説をくつがえすことでしょう。
 今後の研究の成果に期待しています。
399ーー変更を迫られる歴史認識(1)訂正削除部について  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 3日(土)20時41分12秒
 それ以上に、日本の文化の発祥が60〜70万年前の旧石器時代であったことを示す宮城県上高森遺跡など数カ所で発見された遺構があります。石器を左右対象に組み合わせて埋めたもので、儀礼的な祭りごとのためのものと見られていることを考えると、旧石器時代や石器時代の稲作や植物栽培の可能性さえ窺わせてくれます。
前々稿で引用した文書に「上高森遺跡」に関する部分がありました。
この部分は、読飛ばして頂くようお願い申し上げます。
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道工事市指定工事店
http://wood.co.jp/kinokokoro/no17/toku1-1.htm
398ーー変更を迫られる歴史認識(3)  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 3日(土)16時42分3秒

特集? 木の家づくりの歴史に学ぶ その(3)
ここから以下は著作権侵害と判断し、管理者(古建築研究会)として削除しました。

http://wood.co.jp/kinokokoro/no17/toku1-1.htm

397ーー変更を迫られる歴史認識(2)  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 3日(土)16時36分41秒

特集? 木の家づくりの歴史に学ぶ その(2)
ここから以下は著作権侵害と判断し、管理者(古建築研究会)として削除しました。

http://wood.co.jp/kinokokoro/no17/toku1-1.htm

396ーー変更を迫られる歴史認識(1)  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 3日(土)16時33分2秒

特集? 木の家づくりの歴史に学ぶ その(1)
ここから以下は著作権侵害と判断し、管理者(古建築研究会)として削除しました。

http://wood.co.jp/kinokokoro/no17/toku1-1.htm

395ーー「古代以前より頻発する有感地震に煽られ続け、語り継がれ決して風化しない巨大地震の潜在的恐怖」の【基礎データー】  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 3日(土)09時04分45秒
全国地震情報 (2005年 12月 2日 22時 25分更新)
震度3以上の頻発する有感地震(〜年1000回とも、2,3日に一度ともいわれている)
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.3度) >
2005年12月2日22時24分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.3度) >
2005年12月2日22時18分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県南部(北緯36.2度、東経139.8度) >
2005年12月2日21時59分気象庁地震火山部発表
<震源地:紀伊水道(北緯33.8度、東経135.1度) >
2005年11月23日22時29分気象庁地震火山部発表
<震源地:種子島近海(北緯30.9度、東経130.3度) >
2005年11月22日0時53分気象庁地震火山部発表
<震源地:種子島近海(北緯30.9度、東経130.3度) >
2005年11月22日0時47分気象庁地震火山部発表
<震源地:種子島近海(北緯30.9度、東経130.3度) >
2005年11月22日0時42分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県沖(北緯36.4度、東経141.1度) >
2005年11月17日10時58分気象庁地震火山部発表
<震源地:三陸沖(北緯38.0度、東経145.0度、牡鹿半島の東31 ...>
2005年11月15日6時55分気象庁地震火山部発表
<震源地:三陸沖(北緯38.0度、東経145.0度、牡鹿半島の東31 ...>
2005年11月15日6時49分気象庁地震火山部発表
<震源地:岩手県沖(北緯39.6度、東経142.1度) >
2005年11月13日9時29分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県沖(北緯37.5度、東経138.5度) >
2005年11月4日1時11分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県沖(北緯37.5度、東経138.5度) >
2005年11月4日1時6分気象庁地震火山部発表
<震源地:紀伊水道(北緯33.8度、東経135.1度) >
2005年11月1日12時52分気象庁地震火山部発表
<震源地:岩手県内陸南部(北緯39.1度、東経140.8度) >
2005年11月1日11時6分気象庁地震火山部発表
<震源地:岩手県沿岸北部(北緯39.9度、東経141.7度) >
2005年11月1日6時57分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県南部(北緯36.2度、東経139.8度) >
2005年10月31日2時36分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.4度、東経142.2度) >
2005年10月24日18時40分気象庁地震火山部発表
<震源地:福島県沖(北緯37.1度、東経141.2度) >
2005年10月22日22時23分気象庁地震火山部発表
<震源地:福島県沖(北緯37.1度、東経141.2度) >
2005年10月22日22時17分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県沖(北緯36.4度、東経141.0度) >
2005年10月19日20時55分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県沖(北緯36.4度、東経141.0度) >
2005年10月19日20時50分気象庁地震火山部発表
<震源地:青森県西方沖(北緯40.8度、東経139.0度) >
2005年10月18日1時19分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県南部(北緯36.1度、東経139.9度)>
2005年10月16日16時15分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県南部(北緯36.1度、東経139.9度) >
2005年10月16日16時15分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県南部(北緯36.1度、東経139.9度) >
2005年10月16日16時9分気象庁地震火山部発表
<震源地:与那国島近海(北緯25.3度、東経123.4度) >
2005年10月16日0時57分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県北部(北緯38.4度、東経141.2度) >
2005年10月10日12時6分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.8度、東経141.7度) >
2005年10月9日18時19分気象庁地震火山部発表
<震源地:浦河沖(北緯42.0度、東経142.5度) >
2005年10月3日16時31分気象庁地震火山部発表
<震源地:国後島付近(北緯43.7度、東経146.3度) >
2005年9月21日11時30分気象庁地震火山部発表
<震源地:千葉県北西部(北緯35.6度、東経140.1度) >
2005年9月20日20時44分気象庁地震火山部発表
<震源地:福島県沖(北緯37.0度、東経141.3度) >
2005年9月11日5時12分気象庁地震火山部発表
<震源地:新島・神津島近海(北緯34.4度、東経139.2度) >
2005年9月6日9時25分気象庁地震火山部発表
<震源地:伊予灘(北緯33.5度、東経132.1度) >
2005年9月4日19時13分気象庁地震火山部発表
<震源地:三陸沖(北緯38.4度、東経143.5度) >
2005年8月31日3時17分気象庁地震火山部発表
<震源地:三陸沖(北緯38.5度、東経143.4度) >
2005年8月24日19時21分気象庁地震火山部発表
<震源地:岩手県沿岸南部(北緯39.0度、東経141.7度) >
2005年8月22日0時28分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県中越地方(北緯37.3度、東経138.7度) >
2005年8月21日16時47分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県中越地方(北緯37.3度、東経138.7度) >
2005年8月21日11時46分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県中越地方(北緯37.3度、東経138.7度) >
2005年8月21日11時37分気象庁地震火山部発表
<震源地:新潟県中越地方(北緯37.3度、東経138.7度) >
2005年8月21日11時33分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.4度、牡鹿半島の東8 ...>
2005年8月16日12時12分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.4度、牡鹿半島の東8 ...>
2005年8月16日12時7分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.4度、牡鹿半島の東8 ...>
2005年8月16日12時1分気象庁地震火山部発表
<震源地:宮城県沖(北緯38.1度、東経142.4度、牡鹿半島の東南 ...>
2005年8月16日11時54分気象庁地震火山部発表
<震源地:日高支庁東部(北緯42.3度、東経143.0度) >
2005年8月16日8時34分気象庁地震火山部発表
<震源地:福島県沖(北緯37.1度、東経141.6度) >
2005年8月10日15時18分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県沖(北緯36.4度、東経141.5度) >
2005年8月8日0時18分気象庁地震火山部発表
<震源地:茨城県沖(北緯36.4度、東経141.5度) >
2005年8月8日0時11分気象庁地震火山部発表
<震源地:千葉県北西部(北緯35.5度、東経140.1度) >
2005年8月7日1時24分気象庁地震火山部発表
<震源地:千葉県北西部(北緯35.5度、東経140.1度) >
2005年8月7日1時15分気象庁地震火山部発表
<震源地:千葉県北西部(北緯35.5度、東経140.1度) >
2005年8月7日1時10分気象庁地震火山部発表
<震源地:福岡県西方沖(北緯33.7度、東経130.2度) >
2005年8月3日12時48分気象庁地震火山部発表
http://www.wis-x.co.jp/members0/jishin/jishin.html
394ーー倭国工人の地震淘汰必要感情イメージの醸成について(補足)  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 2日(金)21時50分50秒
 台湾をのぞきモンゴルを含めた中国大陸に於いて∴約450年で21回の巨大地震がおきたことは前回述べたが、複数回起きた地域は、「寧夏」が2回。「四川省」4回。「甘粛省」が2回。「雲南省」が3回。「新彊」が2回。「河北省」3回。ということで約450年間で21回の巨大地震の内、16回(3/4)は、特に6地域で集中して発生していることを新たに追記する。
その上で、管理者様の立論のなかで「過去における情報伝達の未発達を旨とする論」を倭国日本ではなく、古代中国大陸に於いて援用し、中国大陸は、有史以来「およそ」この六地域に関係しないものは「貿易商」「行政その他」以外は、地震被害を知ることすら稀であった為、倭国の工人とは「地震淘汰必要感情について温度差」が認められ、三重以上の多層和塔造営につき、渡来人は、「飛鳥の工人に逆に学ぶことも多かった」とする推論の補強としとどめ置くものとする。
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道市指定工事店 総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道市指定工事店
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/china.html
393ーー倭国工人の地震淘汰必要感情イメージの醸成について  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:12月 2日(金)20時43分23秒
 中国とその周辺の広大な地域の巨大地震記録を「地震被害0をめざして」のサイトより地震年表資料を示す。
年 月 日 地震名 地域 M 死者 その他
1556/01/23 華県地震 中国、陜西省 ? 830,000 地震災害史上最大の死者数
1739/01/03 平羅地震 中国、寧夏 ? 50,000? (83年後)
1850/09/12 西昌地震 中国、四川省 ? 20,000  (111年後)
1879/07/01 武都地震 中国、甘粛省 ? 20,000  (29年後)      )
1920/12/16 海原地震 中国、寧夏 8.5 220,000 (41年後)
1923/03/24     中国、四川省7.3 4,800  (3年後)
1925/03/16 大理地震 中国、雲南省 7.0 3,600 (2年後)
1927/05/23 古浪地震 中国、甘粛省 7.9 4,000 (2年後)
1931/08/11 富蘊地震 中国、新彊 7.9 10,000 (4年後)
1933/08/25     中国、四川省 7.4 6,800 (2年後)
1935/04/20 苗栗地震 中国、台湾 7.1 3,300 (2年後)
1950/08/15 インド・中国、チベット8.6 4,000 内陸最大級(15年後)
1957/06/27 ソ連、バイカル湖北東 7.9 1,200? (2年後)
1957/12/04 ゴビ・アルタイ地震 モンゴル 8.3 1,200?(2年後)
1966/03/07 中国、河北省 6.8    (9年後)
1966/03/22 中国、河北省 7.1 7日と合わせて8,100 (15日後)
1970/01/04 通海地震 中国、雲南省 7.5 16,000 (34年後)
1973/02/06 炉霍地震 中国、四川省 7.4 2,200  (3年後)
1975/02/04 海城地震 中国、遼寧省 7.2 1,300 予知に成功(2年後)
1976/07/27 唐山地震 中国、河北省 7.8 240,000 20世紀最大の死者数(1年後)
1988/11/06 中国、雲南省・ビルマ 7.3 730    (12年後)
1999/09/21 台湾大地震 台湾 7.6 2,400   (11年後)
2002/03/31 台湾北東部 7.3 5     (3年後)
2003/02/24 中国、新疆ウイグル自治区 6.8 300   (1年後)
★日本に比して極めて広大な中国とその周辺における大地震頻度
∴約450年で21回の巨大地震(極めて広大な地域で21年に1回の巨大地震)経験は、この広大な中国周辺では、管理者様のおっしゃられるよう「一生に一度遭遇できない」頻度である。
このじじつを私は、中国朝鮮に於いて★「耐震建築の必要性を軽んじる傾向」につながる可能性を否定できないし、技術改良がおろそかにされがちな傾向を考えざるを得ない。
是に対し倭人の住む日本(古代〜江戸)における巨大地震の頻度を提示し、古代中国朝鮮のものと比較することにより【高耐久性古建築の発端の再考察  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)09時51分34秒にて】「単に耐久性を上げようとして掘建て形式を辞めよという技術が《大地震のない中央から東部に都市部を持つ》中国から《大地震のない》朝鮮を経て渡来したとき★地震列島の飛鳥の政権・高僧・工匠達は経験的に捕らえていたであろう【地震力の本質】を逆に渡来人工匠達に聞き返し一考を迫ったであろう。」と述べたことにつき再度、論証を試みるつもりである。
以下「地震被害0をめざして」のサイトより古代日本から現在までの地震年表資料を示す。
年 月 日 地震名     震央        M   死者   その他
416/07/14 河内国地震   大阪府?       ?   ?   記録に残っている最古の地震
684/10/14 紀伊水道沖地震 四国−紀伊半島沖  8.3?  多数  南海地震、大津波(268年後)
745    岐阜県南部    ?         ?
818    関東地方     ?         ?
841    静岡県東部    ?         ?
868    兵庫県南部    ?         ?
869    東北地方太平洋岸沖         8?   多数
878    関東地方     ?         ?
887/07/30 五畿七道大地震 四国−紀伊半島沖   8.3?  多数
976    京都・滋賀県   ?         ?
1096    駿河湾−紀伊半島沖         8?    ?   大津波
1099    四国−紀伊半島沖          8?    ?   大津波
1185/07/09 京都大地震 京都・滋賀県       ?   多数
1293/04/13 鎌倉大地震 神奈川県南部       ?   20,000?
1361    四国−紀伊半島沖          8?    多数
1498    駿河湾−紀伊半島沖         8?     ?
1586    岐阜県北部             ?      ?
1596/07/12 大分地震 大分県           7.0?   710
1596/07/13 伏見大地震 近畿地方中部       ?     多数
1605/12/26 慶長地震 本州南岸沖         8?    多数
1611    福島県                ?    3,700
1611    東北地方太平洋岸沖         8?     1,800
1633    神奈川県西部            ?     150?
1649    関東地方南部             ?    多数
1662/05/01 畿内・丹後・東海西部地震 滋賀県   7.4?   多数
1662/09/20 日向・大隅地震 宮崎県沖       7.6?    ?
1665/12/27 越後高田地震 新潟県南部         ?  1,500
1677    房総半島沖               ?   多数
1694    秋田県北部               ?   400
1703/11/23 元禄関東地震 房総半島沖        8.1?  5,200
1704    秋田県北部                ?   多数
1707/10/28 宝永地震 駿河湾−四国沖         8.4?  2,800 日本史上最大と思われる
1741    北海道南西沖              ?    1,500 噴火活動による
1751/04/26 越後・越中地震 新潟県南部        7.2?   1,500?
1766    青森県                  ?    多数
1771/03/10 八重山地震津波 琉球南部          ?    12,000 地震ではなく地滑り?
1792    島原半島                 ?     15,000 土砂崩れによる大津波
1804     象潟地震 秋田県南部沿岸         ?       500
1819    滋賀県                  ?      あり
1828/11/12 越後三条地震 新潟県           6.9      1,400
1830    京都府                  ?       280
1833    山形県沖                 ?       44
1843    北海道南東岸沖              8?       46
1847/03/24 善光寺地震 長野県北部           7.4    10,000?
1853    小田原地震 神奈川県西部           ?     100
1854/11/04 安政東海地震 駿河湾−紀伊半島沖      8.4     2,500?
1854/11/05 安政南海地震 四国−紀伊半島沖       8.4     3,000
1855/10/02 安政江戸地震 東京都            6.9     11,000?
1858    飛越地震 岐阜県北部             ?       ?
日本(明治〜1945年)
年 月 日 地震名     震央        M   死者   その他
1872/03/14 浜田地震    島根県西部    7.1   550
1889/07/28 熊本地震    熊本県西部    6.3   20
1891/07/21 濃尾大地震   岐阜県西部    8.4   7,300
1894    明治東京地震   東京都東部   7.0   31
1894/10/22 庄内地震    東京都東部    7.3   730
1896/06/15 明治三陸地震津波 岩手県沖    8?    27,000 日本最大の津波被害
1896/08/31 陸羽地震     秋田県東部   7.2   210
1901/08/09 青森県東方沖           7.2
1901/08/10 青森県東方沖           7.4   9日と合計で18
1905/06/02 安芸灘地震 広島県−安芸灘    7.2   11
1909/08/14 姉川地震(江濃地震) 滋賀県東部  6.8  41
1911/06/15 喜界島地震 鹿児島県−奄美諸島   8.0  12
1914/01/12 桜島地震 鹿児島県中部       7.1  35
1914/03/15 秋田仙北地震 秋田県南部      7.1  94
1918/09/08 千島−ウルップ島沖        8.0  24
1922/12/08 長崎県−千々石湾         6.9  26
1923/09/01 関東地震 神奈川県−相模湾    7.9 140,000 関東大震災。日本災害史上最大
1924/01/15 丹沢地震 神奈川県西部       7.3  19
1925/05/23 北但馬地震 兵庫県南部       6.8  430
1927/03/07 北丹後地震 京都府北部       7.3  2,900
1930/11/16 北伊豆地震 静岡県東部       7.2  270
1931/09/21 西埼玉地震 埼玉県西部       6.9  16
1933/03/03 三陸地震津波 岩手県沖       8.1  3,100
1935/07/11 静岡地震 静岡県中部        6.4   9
1936/02/21 河内大和地震 奈良県北西部     6.4   9
1939/05/01 男鹿地震 秋田県−男鹿半島     6.8   27
1940/08/02 神威岬沖地震 北海道西岸沖     7.5   10
1941/07/15 長野地震 長野県北部        6.1    5
1943/09/10 鳥取地震 鳥取県東部        7.2    1,200
1944/12/07 東南海地震 三重県沖        7.9   1,200
1945/01/13 三河地震 愛知県南部        6.8   2,300
日本(1946年〜現在)
1946/12/21 南海道地震 和歌山県沖       8.0    1,400
1947/09/27 沖縄−八重山列島         7.4     5
1948/06/28 福井地震 福井県北部        7.1    3,800
1949/12/26 今市地震 栃木県南部        6.4     5
1952/03/04 十勝沖地震 北海道南東岸沖     8.2      33
1952/03/07 大聖寺沖地震 石川県西岸沖     6.5      7
1952/07/18 吉野地震 奈良県北西部       6.8      9
1960/05/23 (チリ津波) チリ沖        9.5      142 津波による被害
1961/02/02 長岡地震 新潟県中部        5.2      5
1961/02/27 宮崎県沖             7.0      2
1961/08/19 北美濃地震 岐阜・福井・石川県境付近 7.0 8
1962/04/30 宮城県北部地震 宮城県北部     6.5      3
1964/06/16 新潟地震 新潟県沖         7.5      26
1965/08〜 松代群発地震 長野県北部 0 1970年頃まで
1966/03/13 台湾東方沖            7.8      2
1968/02/21 えびの地震 鹿児島・宮崎県境    6.1      3
1968/05/16 十勝沖地震 青森県東方沖      7.9      52
1973/06/17 根室半島沖地震 北海島−根室沖   7.4       0
1974/05/09 伊豆半島沖地震 伊豆半島南岸沖   6.9      29
1978/01/14 伊豆大島近海の地震 伊豆大島付近  7.0      25
1978/06/12 宮城県沖地震 宮城県沖       7.4      28
1982/03/21 浦河沖地震 北海道−浦河沖     7.1       0
1983/05/26 日本海中部地震 秋田県沖      7.7      104
1984/09/14 長野県西部地震 長野県西部     6.8       29
1987/12/17 千葉県東方沖           6.7       2
1993/01/15 釧路沖地震 北海道−釧路沖     7.8       1
1993/07/12 北海道南西沖地震 北海道−奥尻島北方沖 7.8     230
1993/10/12 東海道はるか沖 7.1 1
1994/10/04 北海道東方沖地震 北海道−根室半島沖  8.1     0
1994/12/28 三陸はるか沖地震 青森県東方沖     7.5     3
1995/01/17 兵庫県南部地震 淡路島北部       7.2     6,400
2001/03/24 芸予地震 瀬戸内地方西部        6.4     2
★約1600年で112回の巨大地震が日本列島を襲った。 その頻度は、約14年に一度である。
中国周辺が約21年に一度であるから日本に於いての巨大地震の頻度は2倍にも満たないが、極めて広大な中国とその周辺に比して狭い日本列島であることを鑑みると大変な差異であることは疑いがない。 また、巨大地震だけでなく弱小地震がそのつど「巨大地震の存在」を風化させないとおもわれる。 かくして「飛鳥白鳳の工人は、渡来人技術者に対に日本の自然、気候風土にあった多重和塔のあり方につき一考を渡来人に迫ったものと思われる旨」主張する論拠の補強事実として地震年表を援用した。
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道工事市指定工事店
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/china.html
392ーー磊晟石材  投稿者: 厦門磊晟石材進出口有限公司  投稿日:12月 2日(金)15時13分34秒
拝啓 貴社益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
弊社磊晟石材は中国福建省厦門市に輸出入業務を行う事務所を置き、石の故郷と呼ばれている泉州に自社工場があり、生産及び輸出入を一貫して行っている石会社です。弊社は生産管理方法については、世界一品質の厳しい日本より導入し、日本人の方々から指導を受け、管理体制をもっと強化し、現在では、安定した品質を維持しており、お客様より「上位クラスの品質」と高い評価を得ており、品質には絶対の自信を持っております。直接取引ですから、値段はよりやすく、日本の問屋さんに近いサービスも提供できると確認しております。
経営範囲:
墓石、外柵(石種は国内産、外国材で様々多いです)
建築石材:板材、縁石、塀石、車止石、間知石、ピンコロ、敷石など
彫刻品:動物彫刻、人物彫刻(観音様、仁王様、地蔵様)、灯篭など
影彫り:風景、人物、動物など
石のことならば、何でも結構ですので、ご相談頂ければ幸いでございます。最後に大変恐縮と存知ますが、御社よりのご用命心よりお待ちしております。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
中国・厦門磊晟石材進出口有限公司
TEL:86-592-5651792(日本語可)
TEL:86-592-6021792(日本語可)
FAX:86-592-5604127
E-mail: youkeitou@leishengtop.com
MSN: yini928@hotmail.com
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391ーー素晴らしき古建築研究会  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:11月30日(水)21時22分30秒
管理人様は、類まれな古建築大研究者であられ、且つ私は、HP上でも個人的なメールに於いても大変多大なる示唆に溢れる感銘深いご教示を恒々頂いております身でございます。
皆様ご存知の通りこの「古建築研究会」HPは、古建築界に於いて日本最大の情報量を誇るといってよい程の情報量を持つ金字塔を堂々と建てました、知る人ぞ知る★古建築のポータルサイトともいえるすばらしいサイトであります。
掲示板に書くこと自体大変恐れ多いこととのご指摘をよく頂いておりますもので私のお師匠様のような管理人様であり、HPであり、私など足元にも及びません。 一生懸命勉強させていただきいろいろお教えくださる管理人様の真意を汲めるレベルにいつの日かなるのが遠い目標であります。
これからも感じるところある限りよく調べもせず投稿させていただくこともあろうかと思いますが、お叱りや大変深い内容のご教示のメールを必ず頂けますのでとても楽しみであり、励みなのであります。 今後とも全国古建築研究社のよけては通れない「虎の穴」古建築研究会の発展を願ってやみません。
合掌
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道市指定工事店
390ーー雨と地震  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(水)20時22分35秒
 日本は地震国です。しかし、一人の人が一生の間に大地震を体験することはほとんど無いでしょう。現代は情報化の時代です。遠方の地震もテレビや新聞が詳しく教えてくれます。さも、体験したような気になりますが日本人で震度6程の大地震を体験した人は何人いるでしょうか。関東大地震から今年で80年になります。関東の人のほとんどが体験をしていないのです。
 関西の人もそうだったと思います。阪神の大地震も神戸地区では有史以来と言われています。しかし、歴史を調べてみれば、秀吉が作った伏見城が慶長の大地震で倒壊しています。嘉永7年には奈良でも大地震がありました。調べてみれば、百数十年に一度は体験しているはずです。人生50年の時代では三世代もしくは四世代に一度しか体験しないことになります。一生に一度も体験しない人が九割を超すでしょう。
 まして、情報メディアの無い時代、遠方の地震をどのように聞いたでしょうか。私もそうですが体験していないものは理解が出来ないと感じています。
 軒の出と雨の関係ですが、古代、大陸から最新の建築技術が伝えられたとき、雨の少ない中国の建築技術が伝えられたと思われます。現代の中国の建築のように軒の出は少なかった思われます。雨は毎年のように降ります。大風も吹きます。軒下の木製の部材が雨に曝されて傷んでいくのが毎年のように見られるでしょう。これを見て、古人は軒の出を深くしていったのであろうと感じています。
 昭和30年頃までは私たちの廻りにある神社仏閣も多くは茅葺きでした。建築を長持ちさせ、かつ檀家、氏子、信徒に負担をかけまいとした住職、神主、檀家総代、氏子総代は相談として茅葺きをトタン葺きや瓦葺きにしました。その影響で軒の出が少なくなったのです。茅は見ていただけると判るのですが、茅の厚みが0.7mから1mくらいあります。風雨に曝されなかった廻り縁が長持ちさせようと願った職人、住職、神主、檀家総代、氏子総代の願いの反対に、風雨に曝されるようになってしまいました。むしろ、茅葺きのまま、保存された建築の方が基礎の部分を含めて傷まなかったのです。
 今、社寺建築でトタンをかける場合も茅の部分を残してその上にかけるようになったか、銅板葺きも茅葺き風の形で葺くようになりました。前のトタン葺きや瓦葺きから比べると軒の出も深くなりました。一般人も職人も経験しないと修正出来ないものと感じています。
389ーー耐震偽造責任と設計事務所の限界について(2)  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:11月30日(水)00時19分18秒

★建築品質を下げ一生住めない建物を造る【カタボウ】を職人ではなく「設計事務所」が担いでおります。
前回も色々注意を喚起させていただきましたが本当に注意が必要です。今回の事件は氷山の一角です。
★「手抜き工事」を指摘する設計屋さんが多いのですが事実は・・・
たった今筑紫哲哉ニュース23に(社)日本構造技術者協会の大越会長が出演しました。そこでこの会長が話したことは、まさに「他人任せの設計業界」であった事実を暴露したということにつきるであろう。「性善説」という極めて聞こえの良い言葉を使い回し、設計事務所が確認申請する際の検査体制も含め、専門家が専門家等に仕事(構造計算などの下請け仕事なども含む)を出す場合「性善説」で対処してきたと暴露した。つまり「性善説」とは「フリーパス」のことだと思われます。私が前回の投稿で《私はいままで何度も設計事務所の限界につき警鐘を鳴らしてきております。辛くもこんな形の事件という形であらわれて残念です。今回の事件は辛くも取り返しのつかない形で設計屋さんの【社会的立場】と【危険性】が表れてしまったものと感じております。》とか《★構造計算だけでなく測量等も分業が当たり前と思っているから「他の専門家」を疑わないのです。》とか《私は総合建設業開設者としての必須資格「経営業務管理責任者」をもち永くこの業界に携りこの業界と苦楽を共にさせていただきました。 その中で外注内勤も含め「建築士」の質に失望しながらの毎日でした。一番足りない部分は今回の事件の設計屋さんもそうなのでしょうが「部分的責任」しかないと考えているものが余りにも多いのです。》と書きましたことを裏付ける発言となったのでした。前回の私の投稿を見て「なにか設計屋さんに恨みでも?」と、思われた方も多いのではないかと思います。そうではなく、私が父親の大より(30年以上)にわたり見聞きし、体験した設計事務所とりわけ先生などと呼ばれる一級建築士が「この程度」であることは(社)日本構造技術者協会の大越会長が言われたとおり明らかな日の当てられない「事実」で大変な問題であると言いたいのです。ですから私は、平均的な「総合建設会社の許可の重み」と平均的な「建築士事務所の看板の重さ」を比べてもらっては困ると言っているわけです。
 この程度の認識しかない「設計業者」は建築などを行なえば被害者だらけになることが必定であるということをことあるごとに主張しております。気位だけ高く、もっともらしいことを言い放ち、いい加減な仕事ぶりでお施主の期待を裏切る結果となるような「気構え」しか最初から持ちあわせていない輩が「設計業界には多い」ということなのです。設計業界だけの問題ではないのですが「先生」などと呼ばれるような「業界」などでは決してないということです。職人さんや被害者がかわいそうです。下記はこの団体の会長のHPでのもっともらしい挨拶です。今となっては、むなしく響くだけですが。
        会長よりご挨拶
 ようこそ、(社)日本建築構造技術者協会(JSCA)へ。
 私たち建築構造技術者は,建築物の安全性の確保や居住性の向上を図り、快適な空間を作り出すことを目指して、建築物の設計や施工の監理の仕事をしています。
 私たちは,建物の自重や積載荷重および台風,地震などに対して建築物が、常に、安全であるように、柱や梁,床や壁などの構造体の設計と監理をしています。
 設計は,建築基準法をもとに行っていますが,当協会には、独自の建築構造士制度や,計算指針・監理指針があり、会員は、日頃から、キャリアの開発と職能の研鑚に努めています。
 会員は、当協会の倫理規定を守り,社会に貢献していく使命を抱いて、実務についています。
 みなさまの建築構造に対するご理解と、建築構造技術者へのご鞭撻をお願い申し上げます。
会 長 大越俊男
このような奇麗事で固めてはおりますが現実は正反対のことをテレビで暴露しているのです。このような事態となっては、ここにある挨拶の内容のことなどテレビで話したら袋叩き必定で言えなかったものと思われます。この現実が法学部卒の私に「ニ級建築士」をとらせ、経営も含め職人として現場に張り付かせたということです。 こうしなければ「会社の看板」も「お施主さんの生命財産を守れない」と感じたからです。大学を出て感じたことは誰にとっても事実だったと言うことでしょう。
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道工事市指定工事店
    ★建築士制度がより有意義なものになるよう願ってやみません★

388ーー耐震偽造責任と設計事務所の限界について  投稿者: 藤巻 巌  投稿日:11月29日(火)10時50分23秒
私は、今までことあるごとに設計屋さんは建築業の許可を設計屋さん資格だけでは一切取れないのだから建築をしてはいけません。 と何度も主張してきました。そして小規模なものを除き「建築工事業許可」がないと元請ができないから「施主直営」などという★脱法的行為にて施工するようなことをことをしては絶対にならないと言ってきました。 許可のない建設屋さんや設計屋さんは「瑕疵保証制度」にも入れませんので注意が必要です。一個人の設計屋さんが財産的に負える責任など限られているのです。私はいままで何度も設計事務所の限界につき警鐘を鳴らしてきております。 辛くもこんな形の事件という形であらわれて残念です。今回の事件は辛くも取り返しのつかない形で設計屋さんの【社会的立場】と【危険性】が表れてしまったものと感じております。今回構造設計をしたものの責任は1人の人としても建築士としてもまた一人の「商人」としても言うまでもなくあり、そのものに下請けさせた意匠設計事務所(確認申請名義人)にも同様の責任が当然あるのは言うまでもないことです。(総合)建築工事業許可を取るためには資本信用条件、経営管理者経歴要件、技術者要件、元請工事経歴要件など様々な「厳しい」条件をつけさせられます。【許可】をとらねば開業できない★建設業【許可】と違い、座学の試験で建築士免許証を取ればほぼ100パーセント【申し込み登録】だけでほぼ誰でも簡単に「個人開業」できる安易さです。この極めて多大な開きのある開業までの法律要件の違いも今回の事件に大きく関わっていると思わざるをえないのです。
★簡単に言いましょう。
【すぐ開業できる法律制度であること=大きいお金を扱わないからOR建設屋さんの下請けで図面書いてるだけだから】という概念を国側が想定しているという理由以外合理的理由が見つかりません。 繰り返しになりますが【申し込み登録だけ】でほぼ誰でも開業できる安易さです。
★産みの苦しみがないから平気で「手抜き設計」をしてしまうのです。(無許可リフォーム詐欺屋 も同様の理由と存じます)
★産みの苦しみがないから平気で「構造屋さんの計算書」を検討しないし、して偽造が判明しても 黙っちまうのです。
★誰でも管理建築士を雇えば設計事務所を開設できるから「建築士免許取り消し」なんかこわくな いのです。
★構造計算だけでなく測量等も分業が当たり前と思っているから「他の専門家」を疑わないので  す。
★★★実際に造り直接責任を負うのが「自分=設計屋さん」ではないので色々気軽なのです。
★そんな設計屋さんに限って「品質やこだわりやプライド」はなぜか宇宙一なのです。
★そんな設計屋さんにかぎって「施主直営」という脱法行為で許可を受けなければならない「建設 業」をしたがります。 これがなによりも危険なことなのです。
以下詳述いたします。
私は総合建設業開設者としての必須資格「経営業務管理責任者」をもち永くこの業界に携りこの業界と苦楽を共にさせていただきました。 その中で外注内勤も含め「建築士」の質に失望しながらの毎日でした。一番足りない部分は今回の事件の設計屋さんもそうなのでしょうが「部分的責任」しかないと考えているものが余りにも多いのです。 例えば、さほど広いわけでもないのに測量屋さんの測量図を鵜呑みにする方がほとんどです。300坪程度まででしたら外周部と対角くらいざっとテープを当ててみるくらい当然と思います。といいますか「当然」と思われない方がほとんどです。 建築士とは「自らの責任に於いて設計するもの」という旨が建築士法に規定されておりますし、建蔽率、容積率に責任を持つ以上本来敷地を完全に把握するのは当然です。 設計監理の際も建物の位置確認もしない方が多いですし、トランシットなども使えず、建屋の倒れの確認もしない方がほとんどです。 配管の適正勾配を確認することもなければ、水平器一つ持ってこない方がほとんどです。つまらない部分だけもっともらしく指導? される方が多いのですがそんな方に限って監理シートも打ち合わせもないのに、小さい収まり的なこだわりで後になって返しのつかないことを言われるので大変困ります。もともと建設業者は、社内、外注を問わず設計屋さんを使うことは前提ですので設計屋さんの技術力で品質が左右されているような低レベルではありません。 といいますかそれでは信用をなくしてしまい今回のある会社のように会社が倒産してしまいます。もともと「紙切れ」だけで勝負してないわけですし、下請けさん達の生活も建て主しさんの命も安全もかかってますので責任重大なのです。この事件にかかわった建設屋さんは、私の述べました建設屋の掟や責任を理解してたでしょうから倒産しても自己責任であり、たとえ万が一構造屋さんに騙されていたとしてもそのせいにできない事柄です。デべも総合建設業許可をお持ちなので構造屋さんや建設屋さんのせいにしてるのは素人じゃあるまいし不適切と考えます。
★総合建設業者たるもの他の技術者に騙されるようじゃもともと「許可」取得も困難ですし看板を 守れなないのは当然です。
★そのような許可業者はもともと事件収拾後に速やかに倒産するべきなのです。
★★★「名義貸しのような形で総合建設業経営業務管理責任者をどこからか連れてきて許可を取得」したように思えてなりません。どちらにせよそんな業者は今回手抜きの【カタボウ】を担いだ今回の一級建築士共同様、この業界にいて欲しくありません。
               ★建設・設計業界の恥です★
私も気をつけて参りたいと存じます。 法学部卒ですが10年以上前にニ級建築士を取得したのも建築士にだませれてはならないという気持ちと建築士の気持ちの両方を理解する為でした。
職人に手を染めたのも職人の気持ちをなんとか解かろうとする為もありました。 最期は職人で品質が決まる場合も多いですし、設計する上でも施工する上でも職人に学ばなければ本物になれないと感じたからです。総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営業務管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士 上下水道工事市指定
387ーー高耐久性古建築の発端の再考察 (補足)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月29日(火)08時29分25秒

下記過去ログの《》内に補足させて頂きます。
また、論旨として重要な部分に追加して「」や星マークをつけさせていただきます。
高耐久性古建築の発端の再考察  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)09時51分34秒
「掘建て柱による建築」は、元来地震国である倭国にて「大変工学的にみて理にかなっていた。 地震の少ない国に於いてのそれとは「発展過程の変遷を考察」する上で異なる過程を考慮するべきである。
当時の倭国(大和政権以前)は、《現在と同様》「世界一の地震列島」であるため上部構造を《大和政権に移行した後も、法隆寺五重の塔のように》「高く」作るときの選択肢から「柱を埋め込むこと」を工学的に外せなかったのは《たとえ木造による造営の歴史的な流れが柱埋め込みに端を発したとしても》「大変理にかなっていた」《工法な》筈である。 また「鉄器の普及」なしに「高度な加工」は「大手間」である為☆木組みを複雑にせずに大建造できる方法として「柱の埋め込み」は《地震大国の宿命として》大和政権以前は「当然の方式」であった。
そして大和政権になり中国文化を踏襲した渡来人が掘建て柱造立法から、礎石に柱を載せた新形態に移行させたということになっていると見られる検証が多いがそれは余りにも☆短絡的すぎる。
何故かといえば、《礎石基礎に》変遷したとき構造力学視点から見ると木組みの強度を上げること即ち、木造であるので語弊があるがいわゆる軸組みを《単に》ラーメン化する《だけでなく心柱を埋め込まない「薬師寺三重塔」を我が☆大地震大国おいて実現するためには、実験事実の有無以前の問題として、少なくとも現在の用語での「減衰性能」や「振動モード」解析の初歩的な概念を縮小モデル等を用い実験により検討する》必要を迫られたわけである。つまり、軸組みの強度即ち粘り強さ(剛性とは表記しないつもりである=遊びが木造の終局的強度確保に大切だからである)を向上させないと躯体が持たない《し、逆に軸組みの剛性を上げ、減衰特性をないがしろにすれば「転等モーメント」の問題が生じてしまうため柱脚を少なくとも完全な「ピン」とせざるを得ない》ということになる。 ☆渡来人には持ち合わせのない地振の破壊力の経験をもつ大和の工人達は☆渡来人の技術を決して鵜呑みにはしなかった筈である。
☆渡来人に対し日本の気候や地震も含めた風土を良く理解させた筈である。☆「剛柔論争」的な議論をは少なくともなされてきたから★柱脚ピン構造《小地震、中地震程度では重い土葺屋根と礎石と木造柱脚との摩擦を考えれば柱脚ピンと同視してかまわないであろうと思われる》で造立法が確立し【え】たはずである。 単に耐久性を上げようとして掘建て形式を辞めよという技術が《大地震のない中央から東部に都市部を持つ》中国から《大地震のない》朝鮮を経て渡来したとき★地震列島の飛鳥の政権・高僧・工匠達は経験的に捕らえていたであろう【地震力の本質】を逆に渡来人工匠達に聞き返し一考を迫ったであろう。
以下上記高耐久性古建築の発端の再考察  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)09時51分34秒
と対応した論旨のものを紹介する。
本論に入る前に理解を容易にする目的で我が国古建築の基礎構造の変遷について略述する。
法隆寺移築論争の考察  奈良市 飯田満麿 大越論文より  古建築の基礎構造の変遷掲示板に記載された分は藤巻 巌氏の100%複製なので中身を略して掲載しました。詳しい論文は「法隆寺移築論争の考察」に掲載されています。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/iida44.html(管理人)
 「日本各地でほぼ日常的に行われている、遺跡調査で柱穴跡が発見されるのは常識の範疇に属し誰も驚かない。〜〜中略〜〜。然るに今日尚法隆寺を始めとする数多くの古建築が現存するのは、礎石の下の版築基礎盤の為である。以下同工法に付いて知るところを記述する。 礎石基礎の施工
「礎石基礎の建設には礎石直下の床盤が不可欠である。〜〜中略〜〜。今日飛鳥に存在する薬師寺跡の礎石の状況はこの証拠である。
 (注−版築基礎盤の厚さについては推定値を用いた、今後ボ−リング等で確実な測定値が得られればそれに従う。) 」

下記のページより引用
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/iida44.html
総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 ニ級建築士

386ーー高耐久性古建築の発端の再考察 (補足)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月29日(火)08時20分45秒

 下記過去ログの《》内に補足させて頂きます。
また、論旨として重要な部分に追加して「」や星マークをつけさせていただきます。
以下上記高耐久性古建築の発端の再考察  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)09時51分34秒
と対応した論旨のものを紹介する。
本論に入る前に理解を容易にする目的で我が国古建築の基礎構造の変遷について略述する。
法隆寺移築論争の考察  奈良市 飯田満麿 大越論文より  古建築の基礎構造の変遷掲示板に記載された分は藤巻 巌氏の100%複製なので中身を略して掲載しました。詳しい論文は「法隆寺移築論争の考察」に掲載されています。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/iida44.html(管理人)
 「日本各地でほぼ日常的に行われている、遺跡調査で柱穴跡が発見されるのは常識の範疇に属し誰も驚かない。〜〜中略〜〜。然るに今日尚法隆寺を始めとする数多くの古建築が現存するのは、礎石の下の版築基礎盤の為である。以下同工法に付いて知るところを記述する。 礎石基礎の施工
「礎石基礎の建設には礎石直下の床盤が不可欠である。〜〜中略〜〜。今日飛鳥に存在する薬師寺跡の礎石の状況はこの証拠である。
 (注−版築基礎盤の厚さについては推定値を用いた、今後ボ−リング等で確実な測定値が得られればそれに従う。) 」

下記のページより引用
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/iida44.html


総合建設業(建築工事業・大工工事業・管工事業)経営管理責任者 専任主任技術者
棟 梁 藤 巻  巌 2級建築士

385ーー高耐久性古建築の発端の再考察(5)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月28日(月)12時58分1秒
 地震観測に基づく伝統的木造構法五重塔の振動特性の解明
研究経費 2,000 千円
所属:工 研究科 建築学専攻
職・ 氏 名 講師・藤田 香織
本研究は,地震観測の結果に基づいて伝統的木造構法五重塔の振動特性を明らかにすることを目的としている.対象建物は,三重県津市に平成13年5月に伝統構法を用いて新築された恵日山観音寺大宝院五重塔(以降,津観音と略記)であり,総高21m,方三間,本瓦葺,樹種はヒノキである.図1,2に津観音五重塔の平面図,断面図,表1には材積から算出各層の質量を示す.津観音五重塔断面図
表1 各層の質量(ton)
初重 30.16
二重 11.40
三重 10.71
四重 10.33
五重 11.38
心柱と相輪 0.76
合計 74.74
以下略しますがいかに下半身太りかお解かりと思います。(古建築ではありません。念のため)
http://www.metro-u.ac.jp/toku_kenkyu/2003/w/fujita.pdf
384ーー高耐久性古建築の発端の再考察(4)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月28日(月)11時46分32秒
高耐久性古建築の発端の再考察(2)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察 投稿日:11月14日(月)11時24分44秒 より抜粋。【】部分が抜粋部分です。
【〜足元を固定せず、塔を倒さない為に様々な骨組みとデザインを考えたのだ。
1/5くらいの塔のモデルも造ったに違いない。 が最終的には安全側に配慮し、法隆寺五重塔の心柱の穴埋めは行なわれた。軒についてだが、第一義的に「雨露を考慮」して軒を深くしたとは到底思えない。 揺れ方及び重量バランスを考慮して深くしたのものと考えられる。 軒を深くすると当然風に煽られるため軒の反り(照り)が考案されたのではないだろうか。(土葺き)本瓦は地震ではなく風に倒されないように葺かれたとも思える。何せ最初の和塔であるから重心を下に下げ重くしたのではないか?予想を上げれば枚挙に暇が無いが、現在に於いても通用する1300年通用する技術の基本は渡来人がくる前から連綿と静かに掘ったて柱の我が国で構想が練られてきたに違いない。】
以下他研究者様の御研究内容をご紹介させていただきます。
■五重塔の風災害■
日本風工学会誌,第96号,pp.7-20,2003.7 所収
五重塔は火災などで多くが失われ、明治維新前の建立になる五重塔は僅かに22基を数えるにすぎない。では五重塔は「地震や風についてはどうなのであろうか」、当論文では五重塔と「風」について考察論及する。その具体例として、「風」(昭和9年室戸台風)により倒壊した摂津四天王寺五重塔と「風」(台風9119)による陸奥最勝院五重塔への影響が取り上げられる。興味あるのは五重塔についての工学的な風洞実験が試みられたことと四天王寺文化再興塔の倒壊の具体的状況がかなり克明に調査され歴史的事実として記録されたことおよび最勝院五重塔のなまなましい「被害」状況がこれまた克明に記録され歴史的記録として後世に伝えられることであろう。この意味で本論考は工学的価値もさることながら、文化的・記録的な価値を持つというべきであろう。
「五重塔はなぜ倒れないか」(上田篤編、新潮選書、1996)は「五重塔」が「地震」に倒れないという歴史的事実に着目し、日本の伝統工法の優秀性についてのメカニズムの解明に取り組んだ優れた業績である訳ですが、当然、この論考は将来的には「五重塔」と「風」との関係に於いて、日本の伝統工法の優秀性を解明する論考に発展する可能性を持つであろうと思われます。まさにこのことが、当論考の第一義的意義であることは言うまでもないことであろう。2章では「五重塔の構造的特質と空力的特質」として、1/150のスケールの法隆寺五重塔模型を使った実験結果が示されている。実験結果については五重塔模型と同じ見附面積との正方形角柱とのデータ比較が示され、五重塔構造(深い軒出、上部体積の逓減など)の風圧耐性特性が示されている。但し、残念ながら工学的素養を欠く小生では、塔婆の「風」に対して持つ特性・耐性といったものは抽象論では或る程度イメージ可能ですが、具体的には「どの程度」なのかは良く分かりませんでしたというのが正直なところです。3章では「室戸台風と四天王寺五重塔」として倒壊の様子・倒壊原因の推論が述べられている。これは四天王寺五重塔倒壊の貴重な再現ドキュメントとしての価値を持つ。圧巻は掲載されている「倒壊した四天王寺」(朝日新聞社提供・航空写真)であり、その画像は金堂・講堂・回廊 および周辺諸堂などの伽藍は無事だが、五重塔・中門のみが一種異様に「見事」に倒壊している様を写してい て、その「局部的な破壊力」の凄さを実感させるものです。まさに四天王寺(五重塔)の惨状であり、昭和9年の歴史的一コマを切り取ったものと云える。
★以下私いわたろうの「解説」
☆横力=地振や風 構造は、特殊な場合(建築センター評定を要するものなど)を除き「横力」に対応できる構造を考えないと言うまでもありませんが時代を問わず、また国家、庶民にとっても同様建物として「使い物」にならないのはご存知の通りです。
☆横力とは何か?
発生原因は、「地震」、「風」などです。 今回は関係ないので触れませんが橋梁などの構造では「活荷重」も考慮します。日本語による地震による「横力」対応の正体=地盤も含めた震度特性(簡単に言うと振動の速遅大小)と建物の形状(高さ方向の応力分布などにも関係)や重量(固定・積載荷重)の層間配分、平面配分、強度剛性のバランスを考慮した上で建物が地振動により揺れるときに生じた「慣性力」に対する「内部応力」の合計に不静定構造の場合は塑性ヒンジの発生も含めた終局耐力の考察を加えたもの(保有耐力)のことです。建物を人体にたとえて地震を語るとすれば、地震時「おっとっとおーーー」とふらつくけど、何とか踏ん張っていられる反射神経と筋力、ボディーバランスのことです。 最終的には片足が振動で折られ残りの「最期の一本」で建ってる状態に至った時の耐力を地震に対する保有耐力(抵抗力)と言います。 保有耐力は大きければ大きいほど不経済ですが安全といえます。語弊がありますが、一般的には「頭が小さく」「下半身太り」が地震に有利です。 和塔は「そう」造られております。 背が高いほどユックリ揺れます。地震動がゆっくりで大きいとすと大きく揺れます。その際も頭が小さいほど有利です。和塔は「そう」造られております。
「風」については
上記学会の記術と〜考察(2)に書きました。ので多くは割愛しますが、風による横力に対する抵抗力は風を受ける面積やその形状、重量により決定されます。土葺き本瓦屋根など重ければ重い程風が恐くないのです。極端な話、どんな形でも重いものは倒れにくいし軽いものは倒れやすいというのは原理でしょう。形状ですが、「頭でっかち」の建て物は不利です。「下半身太り」は、やはり風にも有利です。 軒の出に関しては、直下の壁面に当たる風量は計算上「壁面の面積」に「比例」し、その風の一部が軒を押し上げます。 一部は下層の軒を押し下げます。一部は両脇に回り込んで逃げると考えられます。 つまり、垂直壁面が小さいほど有利です。吹き上げられる上層の軒の荷重が大きいほど有利です。つまり壁面に比して深く重い軒は有利であると考えられます。
★地震と耐風が両方同時には起きないのもお解かりの通りです。両方の有利性を保ちながらデザインや構造を考えたのでしょう。私のあらわす内容は「ブラウン運動」や「相対性原理」、「素粒子論」などと違い、古代人の「普通の感覚」である程度対処できる事柄と存じます。ビル風などない時代ですし。
結論:かくして和塔は計画されました。
「構造計算」で出さなくてもある程度は古代人にも古建築を造営するレベルでは把握できていたものと思われます。【軒についてだが、第一義的に「雨露を考慮」して軒を深くしたとは到底思えない。 揺れ方及び重量バランスを考慮して深くしたのものと考えられる。】は「〜再考察(2)」からの抜粋ですが上記の理由で簡単に表記したものです。 第一義的には「雨」ではない。ということです。「雨」では倒れたりしません。勿論「雨」も同時に考慮は言うまでもないことですが致しております。以上です。
★良い文献などございましたらお教えくださいますよう。 長文にて失礼致しました。
383ーー造営用材  投稿者: いわたろう  投稿日:11月27日(日)22時36分37秒
「〜この国の時の権力者、お抱えの工匠に於いては権力の誇示の為、永年に渡り腐りやすい掘っ建て柱建築からの脱却は、悲願でもあった。 複雑で美しい建物を造っても数十年ごとに腐って取り替えるようなことでは人民を疲弊させてまで造営する価値がないしそれでは山も財力も持たない。」
上記に書きましたのは、以前にこの掲示板に「高耐久性古建築の発端の再考察(2)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)11時24分44秒」にて投稿させていただいたものからの抜粋です。
これについて「法隆寺観光ガイド」では天平時代には周辺の山が乱伐にあって資源が枯渇した
旨の表記があり、私と似た意見がありますので参考までに載せておきます。
以下【】内が引用部分。 真偽を問わず史実をあらわす文献などありましたら是非ご紹介頂きますようお願い申し上げます。
【古都奈良には古代寺院が数多く残ることとなったのは我が国にとっては幸せなことでし
たが、反面、大寺院を数多く造営いたしましたので木材の需要も鰻上りとなったため奈良
近郊の山々の巨木資源を使いきってしまいました。】
382ーー昔の宮大工さんはえらい  投稿者: 住めば都  投稿日:11月27日(日)21時39分56秒
 某A建築士による構造計算書の偽造の社会的波紋が広がって、たいへんなことになっていますね。安全性より、営利や保身が大事だったようで、建築会社などからの圧力があったとしても、こんな1級建築士がいるとは言語道断です。
それにしても。数百年以上ももつ寺社や城郭の建築を指揮した宮大工さんたちは、建築法規、耐震設計基準、構造計算、建築確認などがなくても、後世に恥じないものを作ろうと、誇りをもって仕事をしたんでしょう。そして奥ゆかしく、目立たない場所に、自分の名前を墨書したんでしょうね。立派ですね。
 ただし、現代建築のようにコンクリートで鉄筋や鉄骨が隠れてしまって、強度が十分かどうかわからないのと違って、木造建築では構造はよく見えるので、手抜きすれば、すぐわかってしまうのでしょうか。いや、手抜きしようなどと考える職人は、棟梁にはなれなかったと思います。
381ーー高耐久性古建築の発端の再考察(3)  投稿者: いわたろう  投稿日:11月27日(日)21時19分28秒
「法隆寺観光ガイド」より
歴史考証は困難なのですが、私と「倭人」工匠の技術力について同意見がありましたので
謹んでご紹介させていただきます。【】内が引用部分です。
【〜古墳から寺院建築」に変わったのが飛鳥時代で、ただ、我が国の寺院は異国の高度な木造建築技術だけに頼って建立出来たものではないでしょう。なぜならば、それらの建築技術が請来以前に「出雲大社」の高層木造建築を仕上げた実績がありましたし、古墳の土木技術も存在していたからです。その証拠に、寺院建築の工期は、満足な建設設備や道具が無かった筈なのに驚くほどの短期間で終えているのです。】
以上ご参考までに書かせていただきます。
380ーー「桔木の不採用」補足内補足  投稿者: いわたろう  投稿日:11月27日(日)21時00分18秒
「桔木」登場・援用時期につき基本的な史実ですが不明瞭の旨、ご指指導・ご指摘を受けましたので以下補足させて頂きます。
「〜地隅木配付垂木の受ける屋根の重量取り分け隅軒の荷重軽減が求められ(平安時代になり)野屋根工法(桔木システム)が出てくるんよ。」
以上です。
よろしくお願いいたします。
379ーー薬師寺東塔の台輪のつぶれと桔木の不採用  投稿者: いわたろう  投稿日:11月19日(土)11時59分37秒
もともと土葺きなのに軒を出しすぎなんです。これ以上出せないくらい出している。法隆寺五重の塔よりかは軒システムに限れば進化したといえると思うんやけどね、まあとにかく「出す」と決まった以上出せるように造らにゃあきまへん。地隅木に地垂木(配付垂木)が取り付くわけですがつまりは地隅木配付垂木の受ける屋根の重量がかかってくるわけでんな。 隅部分は一般部軒の出のルート2倍を「股」とする。(股+勾)の2乗の平方根が野隅木も含めた全体の基本的長さになるわけでんな。これが当時の到達点ということや。隅尾垂木に載る斗組は最終的には隅の大斗そしてそれは頭貫の絡んだ側柱上の台輪にかかる。大輪は横繊維だから辛いわけや。デザイン上大斗も他にたがわず、縛りこまれてるから余計台輪はつらい。地隅木に地垂木(配付垂木)が取り付くという構造システムがすでに破綻してるわけや。しかし軒の見上げの意匠上もはずせないシステムなわけですから地隅木配付垂木の受ける屋根の重量取り分け隅軒の荷重軽減が求められ野屋根工法(桔木システム)が出てくるんよ。地垂木が構造的面から開放されてゆくわけさそんで「化粧垂木」等とも呼ばれてくるわけさ。 東塔では柱盤を受ける地垂木も飛燕垂木も共に屋根の重さと戦っていたわけなんよ。 つまりすごく材料を食ってる割には隅軒で隅木を単にたよってるだけというあとから見れば付け焼刃的なもの。あくまであとから表面だけ見ればということなんやけど。 勿論斗組共々受けてたんやけどね。桔木は隅軒の問題を一挙に解決してくれましたね。 同じ軒を出すにしても材積が雲泥の差でかつ極めて合理的。 それから小屋組みで革新的出来事は洋小屋組みくらいしかわて程度にには思いつかへんなー。
378ーー元興寺極楽坊 金堂  投稿者: 当方検分録  投稿日:11月19日(土)04時12分28秒
http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/isan/w_isan05.html
377ーー逢善寺本堂 県指定文化財 建造物  投稿者: 当方検分録  投稿日:11月19日(土)04時07分30秒
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-57/image/1-57.jpg
376ーー木割は面白い(2)  投稿者: いわたろう  投稿日:11月18日(金)20時58分39秒
 堂塔の柱は丸柱を旨とする候成り。丸柱の径は見付け面巾を言う成り候。是即ち断面2次半径と坐屈長さの理を表すこと成り候。是即ち木造構造標準虎の巻(恩義口伝)を言うなり。
375ーー木割は面白い  投稿者: 管理人  投稿日:11月18日(金)19時08分11秒
 木割の基本は面だそうです。建物の規模が決まると柱の太さが決まる、柱の太さに対して面巾が決まる。柱と柱の間隔が決まる。面巾が決まると垂木の巾や、戸の桟、升の大きさなど・・・・、すべてが決まるそうです。
近藤豊 著の「古建築の細部意匠」によると柱の面巾の時代差は下記のようです。
平安時代・・・・・1/5〜1/5.5
鎌倉時代・・・・・1/6〜1/8
室町時代・・・・・1/8〜1/10
桃山時代・・・・・1/10〜1/13
江戸時代・・・・・1/13〜1/20
 茨城県の稲敷市にある逢善寺本堂は江戸末期の建築ですが木割に忠実に出来上がったいるのでしょう。遠くから見ると、あまり大きく感じませんが、近くによるに従ってその大きさを感じることが出来ます。茨城県で一番大きい寺院建築といわれています。
 関東地方には大きい面取り柱のある建築を見ることが出来ませんが、私が10年前に最初に見学した奈良の元興寺極楽坊金堂を見学した時には大変感動しました。鎌倉時代の建築ですが大変大きい面取りをしていました。
374ーーラーメン式マンションの構造設計  投稿者: いわたろう  投稿日:11月18日(金)18時40分39秒
総合建設業経営業務管理責任者・総合建設業専任(統括)主任技術者。 だいく藤巻 巌
きょうある構造計算をする1級建築士がテレビに出ている。
意匠設計の下請けだ。 要は、マンションであるから適正スパンと柱径梁断面が解かっていればこんな大事件にはならなかった。 不動産分譲会社も意匠設計屋も相当な責任をとらされるであろう。 これらを使いこなし、安全でよい建物を施工するのが施主の満足につながる。 是こそ
建設会社元請の経営者且つ経営業務管理責任者と専任の主任技術者の責任である。
1,2級設計士を使い1,2級施工管理技師(監督)などを使いこなす建設・設計業界を統括する資格であるから、当該工事を請けたゼネコンも責任なしとは言えないだろう。 「感」と経験。即ち「浅く広く」是なくして「健全な建設工事が成り立ち得ない」
本物の建築物デリバリーに必要な概念であることが如実に表れた事例である。
古代の工人はわきまえていたのだ。
373ーー技術は試行錯誤で(4)試行錯誤の本義  投稿者: いわたろう  投稿日:11月18日(金)17時50分49秒
径に対するスパン割とは「木割であるなり候。これ即ち、タイプ別「標準構造指針」のこと成り候。
文明をもってより工人の願い・・即ち「構造的安心」の義候。構造的安心への挑戦それは「失敗経験」の事成り候。「木割」の成立即ち経験則の成就成り候。是を踏まえた上での仏塔のエレベーションの睨み。
是即ち「盲目」を越えた物成り候。木割、大震災を淘汰伝承した飛鳥の工人の肝心に刻み込まれた睨みに候成り。
372ーー
技術は試行錯誤で(3)  投稿者: いわたろう  投稿日:11月17日(木)21時29分15秒
空間拡大と柱の荷重検証法
面積が大きくなる=柱が少なくなる=柱1本あたりの垂直荷重負担が増える =梁勝ちの骨組みになる=古来からの粘りを期待できない骨組みを造らざるを えない。=スジカイなどの助けを借りざるをえない。
★柱がとりあえず垂直荷重を支えきれるか否か不安なとき=連続梁にしたり、直行する梁同士をつなぎ総持ち状況にする。 =柱を手で叩く。荷重がきついとパンパン高い音がする。 叩いた感じでも大工棟梁なら音を聞かずとも大体わかる。
清水の舞台=柱勝ち半固定ラーメン構造入り母屋古民家=梁勝ち構造柱が細い=余裕の無い軸組みの始まり。 =一般木造2階建て建前時、大筋かいをとり、本来のスジカイだけの状態のすると、外壁つけるまでよく揺れる。
★この経験がないと試行錯誤する前提がない!!
371ーー技術は試行錯誤で(2)  投稿者: いわたろう  投稿日:11月17日(木)09時07分32秒
 古代、仏教国家思想導入も政争により物部氏抹殺という形で始まった。聖徳太子は、574(敏達3)年、父、用明天皇、母、穴穂部間人皇后の皇子(厩戸皇子)として生誕しました。用明天皇の母・堅塩媛、穴穂部間人皇后の母・小姉君は、ともに蘇我稲目の娘で、蘇我馬子とは兄妹でした。また、妃の一人、刀自古郎女は、蘇我馬子の娘でした。593年、推古天皇が即位し、甥の厩戸皇子を皇太子に立て(聖徳太子)、摂政に任じ、国政を委ねましが、事実上は、太子と馬子との共同執政といわれます。601(推古9)年には、聖徳太子は【斑鳩宮を造営】し、【政治の基調に仏教を採用】し、文化の向上と仏教の興隆を目指し、
・冠位十二階 や憲法十七条 の制定
・遣隋使 ・小野妹子を派遣、国書を煬帝に奉呈
・天皇記、国記 の記録
・勝鬘経義疏、維摩経義疏、法華経義疏 の撰
などを行いました。【飛鳥時代】の遺構を伝える法隆寺は、金堂に安置されている薬師如来の光背銘によると、用明天皇が自らの病気平癒を祈って薬師像と寺の建立を発願したが、その完成を待たずに崩御し、その遺命を受けた推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成したとあります。金堂釈迦三尊像の光背銘によると、621(推古29)年に間人皇后が亡くなり、622(推古30)年に太子も病いに倒れ、太子を看病していた妃膳夫人も病床に臥したといいます。そのとき、他の太子の妃や山背大兄皇子をはじめとする皇子、諸臣が太子と等身の釈迦像の造顕を発願したが、膳夫人、聖徳太子と相次いで薨去
したといいます。そこで、623(推古31)年に釈迦像を仏師・鞍作止利に造らせたと伝えられます。
そして643(皇極2)年、蘇我入鹿に攻められた山背大兄皇子一族は、斑鳩寺で自害し、聖徳太子一族は滅亡しました。『日本書紀』によると、670(天智9)年に法隆寺は一屋も余すことなく焼失し
たといいます。金堂と五重塔を擁する現在の西院伽藍は、天武・持統朝に着工され和銅年間(708〜714)には完成されていたといわれます。【政争】により【神道推進派】の物部氏一族郎党の【命が犠牲】になり上記の【仏教国家建設】が始まったということを書いた。国を二分する争いだった。国家仏教導入は国にとりもはや宗教文化ではなく【政治そのもの】だった。これを鎮護国家建設に役立てようとする「政策」だった。この鎮護国家建設をになった「工匠」達は命がけで造営に携った。 いまだかつて造ったことの無い仏教寺院を造らねばならない。 失敗すれば自害がついてまわった。
 ★色々【試行錯誤を重ねた】に違いない。★
来日した渡来人には大地震の経験が無い。かくして諸説あるも立派な法隆寺の伽藍が完成した。
370ーー技術は試行錯誤で  投稿者: 管理人  投稿日:11月16日(水)22時13分37秒
技術は試行錯誤で
試行錯誤
三省堂提供「大辞林 第二版」より
(1)新しい物事をする際、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立て、解決策を見いだしていくこと。
「?を重ねる」
(2)〔心〕〔trial and error〕新しい学習を行う際、初めは盲目的な種々の反応が生じるが、偶然に成功した反応が以後繰り返され、次第に無駄な反応を排除してゆくこと。
 江戸時代の建築を調べてみると大変面白いです。江戸時代初期から元禄頃までは社寺建築は丈夫に作られています。それから享保にかけての建築は次第に柱が細くなっています。推測ですが、技術の発展により何処まで安く建築出来るかを「試行錯誤」したのだと思っています。構造的にも元禄までの建築は柱が多く、時代が下がるに従って柱が少なくなり、空間が広くなっています。時代の要請も有ったのでしょう、建物の中に多くの人が入れるように工夫したと考えられます。
 鉄筋コンクリートの柱も明治から段々と細くなり、経験(地震)により規格が変化しています。最初は新潟地震で規格が変わり、阪神地震でも変わっています。明治に入ってきた最新技術のコンクリートもどのくらいの強度にすれば大丈夫なのか不明の時にはより丈夫に、強度が判ってくれば段々に無駄を省いていくというのはごく普通の考えと思います。
369ーー現代ならできる古建築を越えた古建築その(1)  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)21時57分30秒
古建築の復元の話ではありません。 予めお断りいたします。
1 礎石:?天然であるがやはり水分を柱脚に与え腐れの原因になる。 防露・湿気対策をすること。
   ?ぎざぎざさせとくと地震時擦れて躯体に加わる地震力を低減させる。 礎石上面の形状も
    一工夫すること。
   ?礎石内に雨が進入し溝にたまらない形状が好ましい。
   ?RC地中梁下に、ダンバーつきの免振アイソレーターをセットする。
2 西塔クラスの台輪:本瓦軒隅尾垂木下で大斗を受ける台輪は、そのとき取れた最高の目の詰まった北斜面吉野檜クラスを使うこと(繊維に垂直方向で大斗を受けるが軒の重さでめり込みの危険がおおあり。)「様」に問題が出る場合もあるが構造的には軒一般部に詰組採用が望ましい。
3 高欄:?高欄地福の床板と接する部位は、水が回りやすいので工夫をする。 色々な方法があろ    ?高欄床板は、木裏を表に使う。 いくら勾配をつけても凹みがたの木使いでは水がたま     る危険があるため。
    ?上記の場合、小節の節抜けの危険があるので注意する。 無節、が好ましい。
4 初重本建ち:?裳階をつけ、裳階、軒共土葺き本瓦葺きが好ましい。 下層に重量を多く
      按分し、転倒モーメントに備える。
      ?免振システム採用時は?は採用しない。
368ーー日本人は全大陸系移民人  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)14時52分43秒
50万年前から続く縄文文化の発展としての弥生時代というよりも朝鮮半島からの弥生人が稲作と鉄器をわが国に伝え帰化した。  縄文人と戦うことも多かったが双方存立し現在の日本人の祖先である。 もっと遡れば中国も越え、大陸の奥の奥アフリカ人が日本人の祖先だ。 などど言うことになる。 したがって飛鳥前後の時代において地震大国の地理的に日本に土着している工匠達が当時の中国の先進文化とともに仏教を伝えた渡来人の塔婆技術を大いに改良発展させ独自性の高い建築を残した。 掘っ建て柱も朝鮮渡来人の仕業でも何でもいいんですよ。 とにかく結果としてこの地に住み着いてる渡来人だろうが人類の起源アフリカ人の末裔だろうが北京原人の末裔だろうがとにかく輸入先の国にも自慢できるできばえの建築を造ったことには変わりは無い。
しかしさすれば、掘っ建て柱も縄文人と混血の弥生渡来人だろうし礎石の上の建築の改良も弥生渡来人とアフリカ系か北京系縄文人との混血人は当時の日本に住んでいた人だろうし。 ただ、当時の日本に住んでいたアフリカ系混血移民の工人は一味もふた味も優れてますぜ!!! 地理的に人類の起源とは極めて遠いところにいるわけだから少なくともここにたどり着いた奴らは日本の風土
特性を良く睨み素晴らしい文化を開いたものだということ。
367ーー"本物レンガの価値の下がらない住宅完成見学会"  投稿者: (有)希生木 きいぼく  投稿日:11月16日(水)13時48分44秒
管理人様へ 投稿させていただきます。
はじめまして 三重県の建築デザインオフィス”希生木”(きいぼく)です。
 私共、希生木(きいぼく)は、読んで字のごとく、「希望に生きる木」と書いて希生木と言います。
 昭和58年(1983年)より22年間、ここ三重の自然環境の中でハンドメイドログハウスを建てております。今日では、オールハンドメイドログハウスにとどまらず、早くから2×4住宅にも目を向け資産価値の高い、そしてデザイン性にも優れた、より良い住宅造りをしています。
 創設者 藤原喜代司(代表)はまたワイルドな一面を持ち、若い頃はまだサーフィンと言う言葉が広まる前よりプロサーファーとして活躍し、ショップをかまえてました。そんなワイルドな創設者から始まった希生木(きいぼく)が今年最後に企画した催しを載せたいと思います。
 今回のテーマは 〜自然の贈り物 木と煉瓦の家〜 "本物レンガの価値の下がらない住宅完成見学会"
 日時:2005年11月27日(日曜日)午前10時〜午後4時
 場所:三重県一志郡白山町二本木5260 (有) 希生木・きいぼく
 参加費・バーべキュウ費:無料
 総合案内 059−262−5890(9:00〜20:00 日曜除く)
 アクセス
  車(名古屋方面)
  伊勢自動車道<久居IC>降りる−国道165号線、青山高原方面に15分交差点<大三>左折 ノシアスリゾート看板に従い2分
   電車
    近鉄名古屋線<伊勢中川駅>乗り換え−近鉄大阪線<大三駅>(各駅停車3つ目)下車 徒歩10分
   車(大阪方面)
    西名阪国道<上野東>降りる−国道422号線、青山高原方面に15分−国道165号線 久居方面25分−交差点<大三>左折 ノシアスリゾート看板に従い2分
   電車
    近鉄大阪線<榊原温泉口駅>乗り換え(特急時は)−近鉄大阪線<大三駅>下車 徒歩10分
 三重県初上陸の乾式フルブリックハウス(総レンガ住宅)の完成見学会&BBQを開催いたします。好評の為、前回の構造見学会に引き続き、今回は待ちに待った
完成見学会をアメリカンバーベキューをしながらワイワイとアットホームに開催します。
 今回紹介するブリック(レンガ)はオーストラリア産の100%天然素材で、下地にはガルバリュウム鋼板を使用したレールを使い乾式工法で施工するといった、新工法のレンガの外壁です。サイディングとは違い耐久度も高く、レンガの耐久性は100年以上!!レンガ調サイディングですと耐久性は10年が限度かと・・・メンテナンスもいらず、年月が経つほど味が出てくる、本物レンガ!!
今、騒がれている耐震強度も高く”耐震等級3”を上回る耐震強度を備えてます。ようは震災時には避難所クラスの強度を持っております。耐火性もやはりレンガ・・・もちろん優れており準耐火認定を取得しております。我社も昨年より導入した今、最も注目されているデザイン性に富んだ新しい建材です。興味がある方は是非一度、この見学会に来て・見て・触って本物のよさを感じてください!!
 最新アメリカ住宅建材展示ブースには、先日行われた展示会・セミナーで収集してきた次世代建材の展示もしております。少し紹介をしますと、今までの断熱材をくつがえす、NASAスペースシャトルに使われている高断熱材・次世代屋根断熱材(屋根通気樹脂ネット)ゴアテック仕様の(外からの湿気を遮断し、内側の湿気は逃がす)呼吸するハウスラップなど最新建材盛りだくさんです。
 BBQブース(団欒・談話ブース)には、本物志向のアメリカンスタイルBBQと私、企画部 藤原 康 の夜の顔、DJ 8YAS8(ヤス)率いる娯楽演芸音楽会 "音酒"のナイスサウンドでお贈りしたいと思います。
 興味のある方は、是非一度お越しください。一般の方はもちろん、業者様も我々希生木スタイルを感じてください。きっと何かを得ることと思いまぁ〜す。
            有限会社 希 生 木 (きいぼく)
            住所  三重県一志郡白山町二本木5260
            電話  059−262−5890
            FAX 059−262−5899
            H.P     http://www.kiiboku.jp
            E−mail info@kiiboku.jp
            企画部 藤原 康   http://www.kiiboku.jp
366ーーいまだよちよち歩きの建築技術  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)11時03分49秒
 新宿に副都心ができた頃超高層の時代が幕をあけましたが、その中のあるビルは建設途中で耐風設計(ビル風等)のミスに気がつき、PCカーテンウォールの厚みをまして重量で無理やり風による揺れを抑えたんです。これは構造設計者の中では知る人ぞ知る有名な話です。
もちろん技術ができた当時の話ですが、現場造成のプレテンションパンRC梁を設計し、施工するとき、たわみ分を見越してムクっておく訳ですが、施工後型枠を取ったとき、計算通り下がりヨカッターなんてざらな話ですよ。現場が設計計算通りに行かない話なんて未だに上げれば枚挙に暇がありません。高坂下り方面サービスエリア工事中(10年ぐらい前)切り土したところの高さ10メートル以上の庸壁がバタンですよ!!ずり山なのに雨降ると以上にぬかるんじゃって・・・・
それに比べたら、古代の工匠が挑んでいた世界はすごいなと思います。
365ーー薬師寺3重塔との裳階と高減衰性能  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)10時05分5秒
素人でも
★多重塔は縦長である。
★縦長のものは倒れ易い。ということはわかる。
当時に於いて、地震国に於いての多重塔実績は渡来人からは詳しくは調べられない。そこで色々工匠は悩んだ末、「裳階」に拠る多様な「振動モード対策」と風対策を編み出した。法隆寺建造を経て様々に学んだ知恵がそこにはある。このような多重塔における裳階を利用した高度な工学は日本独自のものでかつ、薬師寺3重の塔を最期に歴史から消え去った。 舎利奉納と安全率向上の為に差した法隆寺の埋め込み芯柱が腐ってきたとき色々学んだのが東塔(三重塔)完成の天平2年(730年)に結実している。
法隆寺五重の塔心柱伐採年が奈良国立文化財研究所の近時の訂正発表で100年遡り、594年とされた。この約100年の時間差が外見上の法隆寺五重塔との大きな違いである。 法隆寺5重の塔初重にも裳階が後に付いたのも、「裳階」に拠る多様な「振動モード対策」と風対策を熟知した工匠の発案であろう。詳しくは次回に書いてみたい。
364ーー廃仏毀釈とレンガ建築と工学校  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)09時07分56秒
 鎖国システムが列強の圧力により崩壊し、欧州視察の結果英仏に見習い国家を建て直すこととなった。 廃仏毀釈により寺が衰退した。 製糸紡績を柱とした工業化社会が到来。 製鉄と鉄道網の整備が全国的に行なわれ都市一極人口集中が都市防火思想を要求。鹿鳴館などとともに欧化政策が推進され不平等条約解消が成功した。関東大震災が「洋館」をなぎ倒したとき本格木造の豪農の家や堂宮は生き残るものも多かった。このとき「地震のおきない国」からやってきた「英仏」の「お雇い外人教授」や明治時代に出現した「工科学校(大学)」は飛鳥前後に来た地震の無い国から来た渡来人と同じ間違いを繰り返した。飛鳥白鳳の工匠は掘建て柱時代から連綿と暖めてきた「口伝」や「知恵」があり渡来人をひれ伏させた。 お雇い外人教授」から「デザイン」学んだ(今でいう大卒)の建築技師たちには命がけで伝承し身体にしみこませた「口伝」も「洋館国産化」を図る知恵が無かった。その結果人名、財産に甚大な被害を与えレンガ建築は耐震工学誕生とともに表舞台より姿を消した。
363ーー鎮護国家と仏の常住説法  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)08時26分29秒
 鎮護国家と仏の常住説法の為に高い耐震性と耐久性耐風性が仏教建築に求められた。疫病や飢饉など国家的不都合のつど元号が変わり都の位置も変わった。人力による運搬能力はたかが知れており、度重なる遷都のごと、人口集中が起こり、近傍の山や林の建築用材は丸裸になった。山に木材多いけど、権力者に必要とされる良材は近畿都市近傍の山から姿を消した。瓦による屋根不燃、深い瓦の軒、土壁による外壁防火、塀の防火は、屋敷森とともに都市の維持能力を飛躍的に増大させた。良く言われる「江戸の火事」は、庶民が板屋根、板壁、過密建築、貸家(長屋)の普及によるものである。古代の遷都の思考とは異なる。律令の制定(大宝律令と養老律令=文武天皇(701)・・総裁刑部親王・中心藤原不比等 / 養老律令=元正天皇(718)・・藤原不比等)によりより堅固な統治機構の整備が行なわれた。それには権力誇示のためにも高耐久高耐震高意匠建築が全国に必要とされたじだいでもあった。中央官制(「二官八省一台五衛府」)や地方官制として五畿(大和・山城・河内・和泉・摂津)七道(西海道=「大宰府がある九州の古代行政区分と、東山道=「紫香楽宮と近江大津宮がある行政区」。)
 全国66カ国には、中央から国司が派遣された。国司も「四等官制」(官職は4階級からなっている)だったから、今でいう県知事にあたる守(かみ)から副知事の介(すけ)、さらに下の掾(じょう)、目(さかん)までいた。要地には、都に左右の京職。また外国との交流の窓口となった難波には摂津職が置かれた。外交の窓口兼防衛を担い、「遠の朝廷」ともよばれた大宰府・・・。位階は30階そのうち五位以上が貴族。=「官位相当制」という身分制度も整備された。723年の班田収授法743ねんの墾田永年私財法により山林が田畑に急激に変わっていった時代でもあった。後で出てくる荘園も始めは賃租された輸租田だった。不輸租田は寺・神・職の3つだけ。田は条里制に区画された。(都は「条坊制」)国防も急務となり「防人」制度などが登場した。日本発の巨大国家へ成長する為様々な制度を輸入した結果良民賤民の負担は増大した。国家権力誇示のため建築のあり方そのものも前述の通り変わっていった。同時に仏教的側面からも国家安泰を願い国家仏教が国分寺などとともに隆盛を極めた。永遠普変の仏の命による常住説法実現の為当然高耐久高耐震高意匠が要求された。古来より「伊勢神宮の式年造替も堀立柱で建立するという前提で成り立っています。現在の柱の寸法からすると約20年で腐朽すると云う考えで、造替年数が決められていると考えられます。壊れてなくなる前に新築し、その技術を次世代に伝えると云う役目を担っていました。」が新しい国家建設のためよき風習が危機に晒されました。
362ーー欧化政策  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)01時18分31秒
 確かに「明治政府が推進した銀座煉瓦街は関東大震災で全滅し、同時に同じように洋風建築で建てられた東京帝国大学の建築もほとんどが壊れました。」が、開国以降、欧米列強と肩を並べんが為の「欧化政策」のためであり、日本の気候風土の中で耐久耐震性を要求される仏教建築と比べるわけにはゆかない。
堂宮大工の口伝は、長く持たせるためのものである。 また、木組み一つ見ても耐震性耐久性にからまない木組みはない。
361ーー舎利を安置する塔の耐久性の必要性  投稿者: いわたろう  投稿日:11月16日(水)01時09分11秒
 仏舎利を安置し、あるいは供養・報恩などのために設ける多層の建造物「塔」は、仏教とともに伝わった。 「安置」即ち「安」らかに「置」くのためには耐久性が要求される。
「版築」により地盤がコンクリートの様に固められ「周囲の基壇」により版築が流出するのを防いだのもまた柱を石の上に載せたのも耐久性を上げる為であった。
さすれば、耐久性と日本における耐震性、耐風性を同時に満足させる研究が当時の工匠の課題であった。
また、大仏殿に於いては地震時に倒壊すれば本尊(信仰の対象)を傷つけることになる。
そうなれば堂宮大工は自害を迫られてしまう。
仏教の伝来は、建物の耐久性向上を同時に工匠に要求した。
ここに耐震工学のルーツがあると思う。
大陸方式は机上の空論部分を多く含んでいた。
360ーー人間はもっと単純  投稿者: 管理人  投稿日:11月14日(月)20時25分49秒
 誰でもそうですが生活スタイルは変えられないものです。明治時代、北海道に入植したし人達は本土の今まで過ごしていた所の建築をそのまま移しています。新潟の人は新潟の、富山の人は富山の建築を建てています。また、幕末期に日本に来た外国人もインドやインドネシアなどに建てたコロニアルスタイルを日本に持ってきています。明治政府が雇ったお雇い外国人も自国の建築スタイルをそのまま日本に持ってきています。地震に強いか、弱いかは後で検証されるものです。明治政府が推進した銀座煉瓦街は関東大震災で全滅し、同時に同じように洋風建築で建てられた東京帝国大学の建築もほとんどが壊れました。何時の政府も最先端の技術は欲しいが、それが現地にあうか、あわないかは時間が経たなければ判らないものです。
 まして、建築は費用対効果の世界です。人口が一億二千万人が住んでいる現在と違い、せいぜい五〇万から100万人しか住んでいない世界では木材は無限にあるようなものです。約3千万人が住んでいたと云われる江戸時代は森林の生長と消費のバランスが約三百年間維持出来たように自給の時代でした。その十分の一しか住んでいない世界では木材は無限にあるようなものです。木材を大切に使うのは木材が貴重な世界です。
 森林の成長速度は国によって違います。日本で十年で成長する木でも朝鮮半島では3〜5倍、中国の華北地方では10倍かかると云われています。秦の始皇帝のいた頃の秦は森林地帯だと云われています。その後の人口の増加と消費によって今は禿げ山になっています。中国の技術が日本に伝わる頃には中国では材木が貴重品になっていました。建築文化史家の一色史彦先生の父親は一色五郎先生と云い、彫刻家ですがその五郎先生が日本人より中国人の方が木材の利用方法が上手だと言っています。
 一色史彦先生によると中国から日本に伝わってきた時には二重垂木は飛角地円というように飛檐垂木は角材、地垂木は丸材を使います。中国、朝鮮では今でも枝材を使うそうです。その為、地垂木は丸材でよく見ると不揃いだそうです。しかし、日本に来ると材木が豊富なため、地垂木はすべて角材から丸く加工して使うようになります。日本では時代が下がると加工が大変なため、地垂木も飛檐垂木も角材に変わってしまいます。
 一般民家に関しては材木が安い時代は消耗品扱いで堀立柱、その後の人口の増加による木材の高騰により、堀立柱から礎石建ちに変化したのだとも考えられます。
359ーー高耐久性古建築の発端の再考察(2)  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)11時24分44秒
前葉より
この国の時の権力者、お抱えの工匠に於いては権力の誇示の為、永年に渡り腐りやすい掘っ建て柱建築からの脱却は、悲願でもあった。 複雑で美しい建物を造っても数十年ごとに腐って取り替えるようなことでは人民を疲弊させてまで造営する価値がないしそれでは山も財力も持たない。
日本発の巨大政権が大和政権であり、永年の悲願達成の高耐震高耐久高意匠建築を研究実現する財政的基盤が整えられたとき、朝鮮からの渡来人が色々と中国伝来の塔の作り方を持ち込んだがお話にならない産物であった。 美しい大社を実現させていたこの国にとっては余りにも大陸のデザインは受け入れられない陳腐なものに見えた。 また構造的にも大陸そのままでは【耐震性】が無さ過ぎるということになり★とてもじゃないが大陸と同じ物では【使い物にならない】という結論に至った。(短期時の転倒モーメントが上部構造の荷重に勝ってしまい倒壊の恐れがある)
ここで中国朝鮮におけるマグニチュード6以上の地震分布について紹介する。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj/naifuru/vol30/v30p3.html
朝鮮の渡来人によってもたらされた物は、大地震の無い中国朝鮮に於いての「机上のモデル事例」にしかならなかった。 歴史公証は難しいが、日本の耐震技術研鑚の歴史は渡来人の度肝をぬいたのである。 この渡来人や政権の残念さは大変なものであったがこのとき建築技術が大爆発的に
発展した。 足元を固定せず、塔を倒さない為に様々な骨組みとデザインを考えたのだ。
1/5くらいの塔のモデルも造ったに違いない。 が最終的には安全側に配慮し、法隆寺五重塔の心柱の穴埋めは行なわれた。
軒についてだが、第一義的に「雨露を考慮」して軒を深くしたとは到底思えない。 揺れ方及び重量バランスを考慮して深くしたのものと考えられる。 軒を深くすると当然風に煽られるため軒の反り(照り)が考案されたのではないだろうか。 (土葺き)本瓦は地震ではなく風に倒されないように葺かれたとも思える。 何せ最初の和塔であるから重心を下に下げ重くしたのではないか?予想を上げれば枚挙に暇が無いが、現在に於いても通用する1300年通用する技術の基本は渡来人がくる前から連綿と静かに掘ったて柱の我が国で構想が練られてきたに違いない。
行なわれた。
358ーー高耐久性古建築の発端の再考察  投稿者: 魂でかんじるいわたろうの考察  投稿日:11月14日(月)09時51分34秒
 掘建て柱による建築は、元来地震国である倭国にて大変工学的にみて理にかなっていた。 地震の少ない国に於いてのそれとは発展過程の変遷を考察ずる上で異なる過程を考慮するべきである。 当時の倭国(大和政権以前)は世界一の地震列島であるため上部構造を高く作るときの選択肢から柱を埋め込むことを工学的に外せなかったのは大変理にかなっていた筈である。 また鉄器の普及なしに高度な加工は大手間である為木組みを複雑にせずに大建造できる方法として柱の埋め込みは
大和政権以前は当然の方式であった。
そして大和政権になり中国文化を踏襲した渡来人が掘建て柱造立法から、礎石に柱を載せた新形態に移行させたということになっていると見られる検証が多いがそれは余りにも短絡的すぎる。
何故かといえば、変遷したとき構造力学視点から見ると木組みの強度を上げること即ち、木造であるので語弊があるがいわゆる軸組みをラーメン化する必要を迫られたわけである。つまり、軸組みの強度即ち粘り強さ(剛性とは表記しないつもりである=遊びが木造の終局的強度確保に大切だからである)を向上させないと躯体が持たないということになる。 渡来人には持ち合わせのない地振の破壊力の経験をもつ大和の工人達は渡来人の技術を決して鵜呑みにはしなかった筈である。
渡来人に対し日本の気候や地震も含めた風土を良く理解させた筈である。「剛柔論争」的な議論をは少なくともなされてきたから柱脚ピン構造で造立法が確立したはずである。 単に耐久性を上げようとして掘建て形式を辞めよという技術が中国から朝鮮を経て渡来したとき★地震列島の飛鳥の政権・高僧・工匠達は経験的に捕らえていたであろう【地震力の本質】を逆に渡来人工匠達に聞き返し一考を迫ったであろう。
357ーー無限に増え続ける住宅  投稿者: 管理人  投稿日:11月 2日(水)18時05分54秒
 丈夫で壊れない住宅の未来は、と最近考えてみました。民俗学や地方の話として女の子が生まれた時に桐の木を植えるなどの伝承を聞くことが有ります。その女の子が成人し、結婚して嫁に行くときの持たせる箪笥を作る為の材料用です。それはものが何時かは壊れてなくなってしまうという前提の上に成り立っています。もし、その女の子が成人し、結婚して嫁に行った家に先祖代々の箪笥が有った時には、その家では嫁をもらう度に箪笥が殖えていくということになります。結構、旧家の蔵等を覗くと古い箪笥が何竿も有る場合が多いです。これも考えようによっては地震や火事、風水害の被害を受けずに残ったものと思われます。このことについては歴史学や民俗学を研究している人にとっては大変有り難いことと思います。
 しかし、現代の技術では地震に火事にも強い建築が多く建てられています。建築会社も設計事務所も百年でも二百年でも持つ建築を造りますと宣伝しています。もしこれが可能ならば、住宅は無限に増えていくことになります。箪笥ならば、古い箪笥は蔵の中に納め、新しい箪笥を新婚の夫婦の部屋を飾ることになるでしょう。住宅の場合はどうなるのでしょうか。無限に増やすことは出来ません。
 江戸時代のように火事で無くなる住宅の数と新築される住宅がバランスを持っていれば問題は無いでしょう。大きな自然を考えてみると、日本の環境は江戸時代を通じて自然界で成長する森林と年々消耗する材木の量ががバランスを持っていた時代と考えられます。植林した林と年々伐採される材木の量が平衡したと考えられます。その他にも樽や桶、生活雑貨に多くの木材が利用されています。また、江戸時代は生活に使われていた燃料の薪や炭も木材を利用していました。
 現在の日本社会は建築材料の木材から家具、毎日の生活雑貨の什器から燃料まで輸入品を使っています。農業も肥料の原材料は輸入で、卵や豚肉の飼料は百パーセント近く輸入品で成り立っています。輸入材によって建築も生活雑貨も食料も成り立っています。このように日本で生産されないものを利用して生活をしていけば、何時かは生産技術そのものが廃れていくものと思っています。
 伊勢神宮の式年造替も堀立柱で建立するという前提で成り立っています。現在の柱の寸法からすると約20年で腐朽すると云う考えで、造替年数が決められていると考えられます。壊れてなくなる前に新築し、その技術を次世代に伝えると云う役目を担っていました。・・・と考えられます。
 私の恐れることは地震にも火事にも強く、千年でも二千年でも持つ住宅が建てられ、大工さんが入らなくなる時代が来ることです。もし、このような時代が来た時、大工の技術はどのように伝えられるのでしょうか。もし、技術を習得しても建てられるべき住宅が無ければ、技術も使いものになりません。植林の技術が無ければ造林も出来ず、木材が利用されなければ製材の技術が、矛盾かも知れませんが地震によって壊れる家、火事で燃えてしまう家が無ければ、大工の技術が無くなってしまうような気がします。
356ーーありがとうございます  投稿者: 清水 脩功  投稿日:10月24日(月)18時32分30秒

管理人様、丁寧にこたえてくださりありがとうございます。白鳳時代には一間の吹き放し鐘楼はなかったのですね。
355ーー白鳳時代の鐘楼(2)  投稿者: 管理人  投稿日:10月23日(日)19時21分55秒
2・屋根の形
 古代の寺院の鐘楼の形式は法隆寺のように楼(二階建ての建築)様式のようです。法隆寺、、新薬師寺、どちらも二階建てで、柱間が三×二間です。一間吹き流しの形に近いのは東大寺鐘楼です。いずれも屋根の形は入母屋になっています。内部に入ったことが無いので天井が有るかは判りませんが、入母屋形式ならば天井が有ると思われます。
 現在残されている一間の吹き放し型の鐘楼の形式で最も多いのは切妻形式です。ほとんどは天井が無く、化粧屋根裏が多いようです。
3・木負の止め方
木負・・・地垂木、飛えん垂木を用いて二軒とする場合に、両垂木の間に入る材。
切妻屋根のように規模の小さい屋根の場合、一軒が多く、二軒の例は少ないようです。木負、茅負は専門家でないのでよく判りませんが私が見たものは釘で止めてありました。
4・塗料について
わが国では「赤」と言えば「朱」のことで顔料は水銀朱です。同時に赤系統の色で多く使われていたのはベンガラのようです。白は白鳳時代に僧が鉛で作られた「白粉(おしろい)」を「持統天皇」に献上されたと記録されています。日本では胡粉が利用されているようです。黄色は古代の日本では使われていたようですが、時代が下がるとあまり使われていないようです。その他の色も奈良の正倉院御物に使われている顔料の研究が下記のページに記載されています。
http://shosoin.kunaicho.go.jp/public/pdf/0000000017.pdf
5・屋根材
古代の寺院建築の屋根材は本瓦の遺跡が多く見られます。現存の建築も瓦葺きの多くは本瓦葺です。一部に行基葺きの瓦も見られます(元興寺金堂)。古代の一般建築は板葺き(飛鳥板蓋宮)や茅葺きであったと思われます。
354ーー白鳳時代の鐘楼(1)  投稿者: 管理人  投稿日:10月23日(日)18時57分14秒
まず、白鳳時代とはどのような時代かをインターネットで検索しました。
時代区分は朝鮮半島の百済から仏教が伝来したとされる538年(宣化3)から662年(天智帝の初年)までの前半期を飛鳥時代とし、以後藤原京をへて710年(和銅3)の平城京遷都までの後半期を白鳳時代とされるようです。
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761577854_2/content.html
 それによると飛鳥時代は、それまでに渡ってきた渡来人の建築、美術、工学による技術によって成り立っています。白鳳時代は朝鮮半島に大きな変動が有り、任那、百済、高句麗と云う国々が新羅によって滅ぼされ、多くの難民が日本に移民してきました。その人達による新しい文化運動が白鳳文化と思われます。仏像の世界ではその前の飛鳥時代と白鳳時代では大きな時代差があるようです。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/butu-hakuhou.htm
上記のページを見て下さい。また、白鳳時代という呼称は明治に作られたようです。
1・白鳳時代に鐘楼は有ったか。
飛鳥時代に寺院を作る場合は「七堂伽藍」を示していました。その構成は「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」であり、この中には鐘楼も有ります。その鐘楼が一間の吹き放しのものであるかどうかは不明です。
 建築で云えば法隆寺は飛鳥様式とされ、薬師寺は白鳳様式とされています。現在、奈良県で残されている鐘楼で古いのは下記の三件です。
法隆寺 鐘楼 1005(寛弘2年) 国宝
東大寺 鐘楼 鎌倉時代 国宝
新薬師寺 鐘楼 1279(弘安2年) 国指定
 他の地方で白鳳時代以前の建築が有るのを聞きませんのでこれがすべてだと思います。現存する例では法隆寺の1005(寛弘2年)(平安時代)が最古で、その他は鎌倉時代です。発掘遺跡に関してはよく判りません。以上の古い例では一間の吹き放しのものは無いようです。
一間の吹き放し鐘楼の古い例は(奈良県内では)
願行寺 鐘楼 1580(天正8年) 町指定
長谷寺 鐘楼 1650(慶安3年)
般若寺 鐘楼 1694(元禄7年)
(以上のデータは古建築研究会のページから)
353ーー教えてくれますか  投稿者: 清水 脩功  投稿日:10月21日(金)18時10分56秒
 今通っている中学校のクラスで一間の吹き放し鐘楼を建てようとしています。入母屋造りです。クラスでは飛鳥、奈良時代をテーマに活動しているので白鳳の形にしたいと思っています。それについて聞きたいことがあります。
 1:まず最初に白鳳時代に一間の吹き放し鐘楼があったのかどうかわかりますか。
 2:入母屋造りだと、天井が必要になると思うのですが、今建てようとしている物は小型なので天井をつけると圧迫感があります。無くすためのいい方法はありますか。
 3:木負や茅負は垂木に釘で打ちつけるのですか?それとも別の方法なのでしょうか。
 4:垂木鼻先を黄色くそのほかの木を赤く塗ろうと考えているのですが、白鳳時代はどのようなものを塗っていたのかわかりますか。
 5:建物を本瓦葺にしたいと思っているのですが、瓦が無理な場合は何で葺くのがいいと思われますか。
 宜しくお願いします。
352ーー常陸風土記の丘とワープステーション江戸  投稿者: 管理人  投稿日:10月 4日(火)19時37分8秒
 常陸風土記の丘とワープステーション江戸、どちらも古い時代の建築を模して作られています。現代の法律的には大きな違いが有ります。
 ワープステーション江戸の中に入ったことが無いので、推測ですが人が内部に入って見学出来る施設は建築基準法に従って屋根及び外壁は不燃材を、構造的にも布基礎、又はベタ基礎など、地震にも火事にもある程度、防火、耐震性を持っていると思います。また、人の入れない部分は看板のように野外構造物になります。
 一方、常陸風土記の丘にある建築は博物館的に実物大模型です。建築基準法にとらわれず、古代の工法を使って建てられています。
 日本全国にある重要文化財に指定されている民家も保存の形式は2種類に分かれています。一つは現代的に生活出来なくても、創建当時の様式に復元して、実物大模型のように展示する。どうしても生活感の無い住居に見てしまいます。もう一つは400年からの歴史の中では多くの改築跡が見られます。それをふまえて生活出来るように保存するという方法です。こちらは生活感が見えますが、建立当時の雰囲気が見えなくなる欠点が有ります。
 私にもどちらがベストかは判りません。皆さんはどう感じるでしょうか。
351ーーワープステーション江戸  投稿者: 住めば都  投稿日:10月 2日(日)19時03分43秒
 伊奈町にあるワープステーション江戸を再訪してきました。10年くらい前のオープン直後以来でした。
駐車場料金が無料、入場料も500円と安くなっていたように思います。
それはいいのですが、初期の江戸城(家康入城直後)を模したと説明版にある城郭建築も江戸の町並みを再現した通りの建物も、古くなって塗装が剥げ、屋根も傷んできていました。しょせん、映画のオープンセットに過ぎないといえば、それまでですが、予算を組んで修理したほうが、映像でも見栄えがするのに・・・と思いました。
現在でも、映画やテレビの時代劇のロケによく使われているようですが、建物はクローズアップに耐えないくらい傷んできていますね。
ところで、ここの建物の時代考証はしっかりしているのでしょうか。古建築の専門家や宮大工のアドバイスは受けているのでしょうか。
天気が良い土曜日にもかかわらず、入場者が少ないことも気になりました。
多くの人が、こうした施設(たとえ、アミューズメント・パークとしても)の建築に関心を持つことも、大事ですね。
 
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