住まいの文化
  建築文化史家 一色史彦
(十)先例を重んじると  
 現状を良し、とする時代の中では、生活万般に先例を重んずる風潮が生まれてきます。上層の平安貴族の日記、藤原道長の「御堂関白記」や藤原実資の「小右記」などを読んでみますと、しきりに先例がでてきます。
 あの時は何が、どうして、と細々しい記述なのですが、それが当時の貴族達の公的生活を取りしきる規範となっていたのです。紫宸殿のどの柱をどちらから回った、と先例にあれは里内裏の寝殿造りでも同様な行為をしなければならない。したがってその柱が無ければ困ってしまうことになります。辻褄(つじつま)を合わせるのにひと苦労です。
 ついにはそれが有職故実(ゆうそくこじつ)という学問になってしまいました。古来の朝廷や武家の礼式、典故、官職、法令などを研究する学問、と「広辞苑」に出ています。時代が下がってくると、それこそ、こじつけとでも言いたいような珍説も加わってしまい、とくに戦後の歴史学では学問としてはあやしげなものとして顧みられなくなってしまったことは残念至極と思います。

*藤原道長
966〜1027平安中期の公卿。藤原兼家の五男。986年兼家が一条天皇の外祖父として摂政に任ぜられてから道長も昇進の速度を早め,995年には権大納言で内覧(准関白)となり,次いで右大臣に任じ翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝20年にわたって一の上(いちのかみ)と内覧の座を独占し,さらに1016年外孫の後一条天皇の践祚と同時に摂政に就任した。道長は翌年早くも摂政を辞して長男藤原頼通に譲ったが,世人はなお“大殿”と呼んで尊重しその権勢は少しも衰えなかった。有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)のかけたることもなしと思へば〉の歌は,1018年10月16日,娘の威子が後一条天皇の皇后(中宮)となった夜の祝宴で道長が即席で詠んだ和歌で,太皇太后彰子・皇太后妍子と合わせて,三人の娘が同時に后位に並び立つという空前の栄華を誇ったものである。翌年道長は病により出家し法成寺を造営したが,1027年12月4日,62歳をもって同寺無量寿院において没した。

*一休

*『御堂関白記』
世に御堂殿と称し,その日記は,『御堂御記』『法成寺摂政記』『御堂関白記』などと呼ばれ,自筆原本14巻その他の写本が伝存しているが,最も通用している“御堂関白記”の称は,道長が関白に任命されなかったにもかかわらず,長く内覧の地位に在ったために生じた後世の誤解に基づく命名である。

*一休
1394〜1481(応永1〜文明13)室町時代に出た臨済宗大徳寺派の禅僧。後小松天皇の落胤といわれ,幼少で出家し諸師に就いたのち,妙心寺派の謙翁宗為に参じ,大徳寺の非主流派として小庵を転々し,1456年(康正2)南山城の薪に酬恩庵を創建した。応仁の乱が勃発するとまた諸所を転々としたが,1474年(文明6)勅命により大徳寺の住持に就任した。しかし,すぐに酬恩庵に退き88歳で同庵において寂した。

 部分をとらえて全体を否定するという戦後歴史学の幅の狭さの中では、わが国の豊かな文化史は語れるはずがありません。人の努力はさまざまですが、目標は似かよっています。
「わけのぼる ふもとのみちはおほけれど おなじたかねの つきをみるかな」
 あの一休さんの作です。なにつけても引き合いに出したい名句です。
 
   
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