結城七福神
蛭子神社・大輪寺・毘沙門堂・市杵島神社・乗国寺・金光寺・東持寺の
結城七福神は結城市の町並み活性化運動の七福神です。

結城家との歴史関係を持つ神社・寺院です。

恵比寿

蛭子神社     結城市結城1174(戸野町)
神社境内
寿亀山とあるので弘経寺の住職が揮毫したものと思われる社名額
大黒天 大輪寺     結城市結城1139(戸野町)
由緒
如意山観音院大輪寺と称し、真言宗豊山派の寺院です。もとは常陸国河内郡にあり、大輪坊と称しましたが鎌倉時代の安貞元年(1227)現在地に移され、開基を元観として大輪寺と改称されたと伝えられます。結城家初代頼光より寺領を賜り、以来結城家の祈願所となり、末寺二十二ヵ寺を擁する有力寺院でした。当寺に伝わる文化財のうち「大黒天像」は市指定となっております。
山門
本堂
毘沙門天 毘沙門堂 結城市結城1632-2(木町)
由緒
中興開山の専戒上人は光福寺の尊悠に師事し、毘沙門堂に入り、現堂宇を復興する。
毘沙門堂  明治27年(1894)再興、三間堂
山門  明治27年(1894)再興、四脚門
辨財天 市杵島神社 結城市結城483-1
由緒
 
市杵嶋姫
wikipediaによると、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)は、日本神話に登場する水の神で、古事記では市寸島比売命、書紀では市杵嶋姫命と表記する。
アマテラスとスサノオの誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた宗像三女神の一柱である。現在宗像大社では、辺津宮の祭神としている。
神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。辺津宮は陸上にある宮であり、その意味では、中津宮・沖津宮の祭神とする記紀の記述の方が神名の由来に近いことになる。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。
後に仏教の弁才天と習合し、本地垂迹において同神とされた。
宗像三女神
・奥津島比売命(オキツシマヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)・市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)
全景
本殿
   
福禄寿 乗国寺  結城市結城3073(小塙)
由緒
『乗国寺起立』によれば、福厳寺は鬼怒川と田川に挟まれた処にあり、度々洪水があった。文明十一年(1479)の大洪水では伽藍を失い、ただちに結城家十四代氏広公は現在地の上小塙に移転して、見龍山覚心院乗国寺と改称し再興されたという。氏広公の法名「乗国寺殿日峯宗光大禅定門(」は乗国寺を保護してきた中興開基としての証である。以後、十六代政勝(まさかつ)公、十七代晴朝公の格別の帰依を受け、結城家の位牌所としての乗国寺は確立していった。また、徳川家康の次男秀康が結城家の養子となった縁から、徳川幕府より格別の計らいがあり、乗国寺には御朱印、六十一石六斗八升の寺領を賜っている。

本堂  文久元年(1860)

総門  延宝7年(1679)
楼門  正徳3年(1713)
鐘楼堂  昭和4年(1929)
   
寿老人 金光寺  結城市小田林2045(小田林)
由緒
 
山門
観音堂  江戸後期
   
布袋尊 東持寺  結城市上山川3226
由緒
開基 山川十一代、朝貞(ともさだ)公によって文亀3年(1503)に、上山川、原にある諏訪神社の別当寺として建立される
開山 梁庵眠(りょうあんみん)大和尚
移築 原の地に152年間あったが寛永3年(1626)寺は、現在地に移され長徳7世寄山呑最大和尚を迎えて、中興開山となす
中世武家屋敷跡
東持寺の境内は中世の武家屋敷跡であり、廻りには濠が巡られている。結城市の一族で山川氏といい、山川氏館と言われている
本堂と七福神
薬師堂  江戸後期
   

2006.10.19

|古建築研究会|