山形県

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慈恩寺本堂 慈恩寺三重塔 慈恩寺山門 若松寺観音堂
寒河江市大字慈恩寺 寒河江市大字慈恩寺 寒河江市大字慈恩寺 天童市大字山元
1618(元和4年/江戸初期) 文政13年(1830/江戸後期) 元文元年(1736) 竣工/1509(永正6)
★国指定重要文化財 ★県指定文化財 ★県指定文化財 ★国指定重要文化財
檀家を持たない国家安寧等の勅願寺。現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院である。本堂は桁行7間、梁間5間、向拝一間、入母屋造茅葺屋根。素晴らしい仏像群を持つ古刹としても知られる。 三重塔は文政13年(1830/江戸後期)の竣工で大工棟梁布川文五郎により再建された。


仁王門は江戸時代中期元文元年(1736)に再建されたもので、入母屋、銅板、八脚楼門で県指定文化財。


行基が開山したと伝えられる天台宗の寺院で、有名な花笠音頭に「めでためでたの若松様よ~」と唄われている寺である。観音堂(本堂)は方5間の密教本堂建築。

 

上五十沢(かみいさざわ) 上五十沢(かみいさざわ) 能登屋旅館本館 旧矢作家住宅
村山市五十沢 村山市五十沢 尾花沢市大字銀山新畑446(銀山温泉) 新庄市大字泉田字往還東460
    竣工/大正14年頃(1921頃) 江戸後期
    ★国登録文化財 ★国指定重要文化財
「五十沢」とは、多くの沢があるために付けられた地名で、昔は養蚕や炭焼きで大いに栄えたという。中五十沢の集落から数キロ奥まったところに、上五十沢の集落が山あいに肩を寄せ合うように暮らしている。小さな集落で歩いても家並みは十数分で通過でき、道はすぐに田畑の広がる野に出て車なら転回も難しい細さになる。上五十沢までの道筋にも茅葺きだった民家が見られるが、今は屋根にトタンを冠せた「鉄カブト民家」ばかりである。 平成13年(2001)頃に出版された町並みの本では、上五十沢の景色を「茅葺の家が多く残っていて感動的」書いているが、十年の月日はその感動を奪い、今は点在するといった方がよい景観である。しかし素朴な日本の農村の香りは十分で、茅葺集落の保存や空き家の再利用への意欲も見られる。家は母屋が長く、そこに直家的或いは曲家型に増築したと思われる家が多い。


創業は明治25年(1892)、和洋折衷の木造三階建に望楼が乗る。竣工は宿のHPでは大正10年。棟梁は地元の伊藤辰右エ門。木戸佐左衛門は能登出身の山師(鉱山などを探す人)。外観にある「木戸佐左衛門」の名がある大きな鏝絵看板は大石田出身の左官・後藤市蔵による昭和7年の作。向かって左の戸袋にも市蔵の鏝絵があり駿河湾と富士が描かれており市蔵は伊豆の長八の流れをくむ左官と思われる。

最上地方の典型的中層農家。日本海地域に良く見られる片中門造で県内の中門造の中では最古のものに属する。間取りは土間、馬屋二カ所で「にわ」と呼ばれる作業場が屋内日あり、奥に「ながし(台所)」がある。庭には豪雪地帯の特徴である融雪用の池がある。




 

佐竹家住宅 旧有路家住宅(封人の家) 金山(かねやま) 金山(かねやま)
西村山郡朝日町大字常盤い91 最上郡最上町大字堺田59-3 最上郡金山町 最上郡金山町
元文5年頃(1739頃/江戸中期) 江戸初期    
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財    
最上川の水運が盛んだった頃の大庄屋の住宅。元文4年の火災焼失直義二建てられた直屋、寄棟造、茅葺屋根の家で県内の上層農家の現存建物として状態も良く、養蚕のための改築なども少なかった。現在も暮らされている貴重な活きた遺構である。





封人とは国境を護る役人のこと。寄棟造、茅葺屋根、約81坪(270㎡)ほどの大型住宅。江戸期には庄屋に家で、問屋役や街道筋の旅宿ともなった。松尾芭蕉がおくの細道に記した封人のと思われ、元禄2年(1689)5月に2泊3日逗留し、「のみしらみ馬の尿する枕元」の句を詠んだとされる。写真は立ち寄った時が晩秋で既に正面雪囲いで見えないため裏面外観。


1984年からゆっくりと確実な美しい町並み造りが進められている。金山杉と「美しく古びる」を目指した白壁の金山型住宅、石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦鯉が泳ぐなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクールでの受賞実績がある秋田県との県境の町。歴史は古く、大野東人が東夷東征の際、金山町周辺に陣を張った事が出羽遠征記事に記されている。景観施策には確かに意欲的な町だが、電柱撤廃には至っていない(2011現在)。 天正9年(1581)に金山城(楯山城)が築城され、最上氏の家臣丹・与惣左衛門が配され対小野寺氏の拠点の市つとして城郭、城下町を整備建、現在の金山町の原形となる町づくりがされた。元和8年金山城は廃城となったが、羽州街道の宿場町としては重要視された。明治11年(1878)にはイギリスの紀行家・イザベラバードが町を訪れ、著書の「日本奥地紀行」で絶賛している。

 

羽黒山五重塔 水上八幡社本殿 遠藤家住宅 旧風間家住宅・丙申堂
鶴岡市羽黒町大字手向7 鶴岡市大字水沢字楯ノ下1 鶴岡市田麦俣七ツ滝139 鶴岡市馬場町1-15 
応安5年(1372) 室町中期 竣工/江戸後期 竣工/明治29年(1896)
★国宝 ★国指定重要文化財 ★県指定文化財 ★国指定重要文化財
羽黒山は月山、湯殿山と合わせて出羽三山と呼ばれる山岳修験道場。羽黒山には三神合祭殿がありそこに至る参道に五重塔はたつ。通称、羽黒山五重塔。東北地方最古で全国的にも有名なものである。明治の神仏分離で羽黒山は出羽(いでは)神社となり寺院や僧坊取り壊されたが五重塔は残された仏式建築の遺構である。素木造、方三間、五層、こけら葺屋根。塔は古くは瀧水寺五重塔といわれ周辺には多くの寺院があったという。 この本殿の建立年代は明らかでないが、建築様式から室町中期(15世紀)と推定される。 全体の姿も均衡がよく、ことに向拝の蟇股をはじめ、細部の懸魚・桁隠・虹梁・手挾等に施した絵様彫刻の繊細な技法は優れている。 この本殿は、京都辺りの工人の手によって建てられたものと推察され、当時の庄内地方と、京文化との交流が考えられる。三間社流造、入母屋造、茅葺屋根。拝殿は嘉永3年(1805/江戸後期)の再建。
田麦俣は六十里街道の要所で出羽山信仰が盛んなると宿場的な要素が強くなった。三層構造で居住空間と客人空間を立体的に確保する建築形式である。明治以降は出羽山詣が衰退し、養蚕農家が増え、多層屋根に手を加え、寄棟の大屋根部分を二層、三層と仕切って養蚕できる空間とし、採光と通風の必要上寄棟の妻面側を切り落として「高ハッポウ」と呼ばれる開口部を設けたことで「兜造り」という形が生まれたと考えられる。
風間家は庄内藩の御用商人。明治29年の丙申の日年に七代当主・幸右衛門によって建てられた家は、約4万個の石が置かれた石置屋根が特徴で、主屋を中心に4つの蔵など往時の豪商の面影をよく伝えている。庄内地方の明治期を代表する近代和風建築。





 

旧渋谷家住宅 冨士酒造 山居倉庫  本間家住宅
鶴岡市家中新町10-18・致道博物館 鶴岡市大山3-32-48 酒田市山居町1丁目 酒田市二番町12-13
文政5年(1822/江戸後期) 竣工/明治7年(1874) 竣工/明治26年(1893) 竣工/明和5年(1768)
★国指定重要文化財 ★鶴岡市都市景観保存    ★山形県指定文化財 
田麦俣から昭和40年に移築され、公開された多層民家。県内でも有数の豪雪地帯にあったこの民家は、多層民家と呼ばれている.狭い山峡の敷地と深い雪の生活に適応して三層四層に空間を作り、そして屋根裏部屋までも養蚕などの作業場など、有効な利用をしている。


創業は古く、安永7年(1778)加茂屋専之助が酒銘を「冨士」と定め、酒造業を開始した。平成7年に鶴岡市都市景観保存部門賞を受けている。





酒田米穀取引所の付属倉庫として最上川と新井田川に挟まれた中州の通称・山居島に建てられた倉庫群。棟梁は鶴岡出身の名工・高橋兼吉。妻入り、桟瓦葺、白壁漆喰仕上げ。屋根を二重に組むことで直射熱を防ぎ、且つ屋根と土蔵の間に空間があることで風が流れて室温の上昇を防ぐ造りとなっている。また、けやき並木が並列する並木は防風、西日除けの役割がある。 本間家旧本邸は、本間家三代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷である。巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造りの方で昭和20年(1945)の春まで住んでいた。格式が二千石の長屋門である。特別な時や賓客の来訪時にのみ使用されていた。

 

旧山王くらぶ 旧青山家住宅   

 

酒田市日吉町2-2-25 飽海郡遊佐町大字比子字青塚155    
竣工/明治28年(1895) 竣工/明治23年(1890)    
★国登録文化財 ★国指定重要文化財     
料亭。主屋は木造二階建、入母屋造、瓦葺。棟梁は佐藤泰太良。扇子をかたどった明り取りなど料亭らしい華やかな意匠が見られる。正面玄関は唐破風。画家・竹久夢二も何度か足を運んだといわれる老舗料亭である。
北海道の鰊漁で財を成した青山留吉が故郷に建てた住宅である。主屋北杜部には明治29年に建てられた小座敷部が接続している。伝統的民家建築の平面や意匠をj\引き継いで建てらえた近代住宅建築。

   

 

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