北海道

琴似屯田兵屋 旧簾舞通行屋 旧三戸部家住宅 迎賓館(旧伊達家)
札幌市琴似2条5丁目1-12 札幌市南区簾舞1条2丁目 伊達市梅本町61-2 伊達市梅本町61-2
竣工/明治7(1874) 竣工/明治5年(1872) 明治10年代後半 竣工/明治25年(1892)
★国指定史跡 ★札幌市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★伊達市指定文化財
設計/開拓使工業局(岩瀬隆弘・安達喜幸)。屯田兵屋は北海道開拓と警備の目的及び農作業のために札幌に初めて入植した屯田兵の住居である。この兵屋は琴似屯田兵村跡にある。ここに208戸あった兵屋の一つである「第133号兵屋」を復元したものである。広さは17.5坪、石置屋根。純日本建築とは言い難いが板張りの素朴な木造建築であり、北海道の歴史を鑑みる時、訪ねないわけにはいかない建築である。 (旧黒岩家住宅)。明治5年から17年まで営まれた公営の旅館。明治政府の命令で屋守(管理人)となった福岡出身の黒岩清五郎はこの辺りで最初の日本人定住者である。建物は和洋折衷である。北海道の和風建築のほとんどは洋風が加味されたものが多い。通行屋は他に遺構がなく、貴重であり訪ねる意味があ建物といえる。


開拓記念館庭園内。道内に現存する最古級の開拓農家。宮城県の亘理から移住した大工が、亘理の下級武士の住宅に習ってた建てた寄棟造、茅葺屋根、土間と二室からなる農家である。市内萩原町からの移築。





伊達邦成が開拓の戸籍として明治政府から男爵の位を受けた祝いに、家臣らによって建てられたも家である。全体には書院風の建築だが、明治の北海道建築らしく洋室も造られている。主として開拓状況視察のため来道した政府高官や開拓の接待に使われた。内部の一般公開は基本的にはない。



 

有珠善光寺・本堂 有珠善光寺・客殿 余市福原漁場・主屋 余市福原漁場・味噌倉
伊達市有珠町124 伊達市有珠町124 余市郡余市町浜中町150 余市郡余市町浜中町150
竣工/文化年間 竣工/文化年間 竣工/江戸末期~明治 竣工/江戸末期~明治
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財  ★国指定重要文化財
徳川末期に蝦夷三官寺の一つとして正式な建立をした江戸・芝増上寺の末寺である。本堂は文化年間の竣工とみられている。客殿(旧庫裏)も同時期と思われる。共に大きな茅葺屋根である。



幕末から浜中町に定住してニシン漁をしていた福原家の敷地である。主屋である番屋は出稼ぐ漁夫の宿泊空間でダイドコロと呼ばれる板の間の漁夫溜まりは一部が二階建てで立体的な空間である。ニシン漁の最盛期には土足ままで食事ができるように床板が外れる造りになっている。 藁製品や食料を保管した米味噌倉では外壁と内壁の間に石を詰めてネズミの侵入を防ぐ工夫がされている。広い敷地に多くの建物が残され見学できる。和洋折衷。



 

旧下ヨイチ運上屋 橋本家住宅 橋本家住宅 橋本家住宅
余市郡余市町入舟町10 寿都郡寿都町歌棄町有戸14 寿都郡寿都町歌棄町有戸14 寿都郡寿都町歌棄町有戸14
嘉永6(1853/江戸末期) 竣工/明治12年(1879)頃 竣工/明治12年(1879)頃 竣工/明治12年(1879)頃
★国指定重要文化財      
市内の中通3丁目に建てられた上級武士の住宅。江戸時代、藩士の家は藩の所有物(官舎のようなもの)で藩士の身分や石高に応じて貸与されていた。藩士の身分の変化によって居住者が変わった。黒澤家も5名の藩士が入れ替わって住んだ。黒澤家は主屋、長屋門、蔵、木小屋、氏神などがほぼ完全な形で残っている全国的に見ても稀有な例である。

歌棄の鰊御殿-家は濃い樹々を背に海に対峙していた。歌棄(ウタスツ)とは珍しい地名だが、アイヌ語で「砂が集まる場所」の意という。橋本家は、元は福井県の海鮮問屋で、財を成してこの地で仕込屋を始めた。故にこの家は、福井県の本家の庄屋宅を模して建てられたという。仕込屋とは、漁家に物資や資金を貸す商家である。


正確には「ニシン御殿」ではないが、鰊で財を成したのだからやはり鰊御殿で良いのかもしれない。仕込屋の遺構としては道内唯一のものである。近くには、漁家の佐藤家住宅も残されている。従って訪ねた時(199406)は「鰊御殿」の看板を掲げる旅館だった。もう20年以上前である。今は宿では。御殿は資材集めに三年、施工に四年の歳月をかけて完成した。

女将さんの話では明治12年頃の竣工という。豪邸はすべて北海道外の材料と言われる。欅の大黒柱に太い檜の通し柱が七八本。当時ギヤマンと呼ばれたガラスはオランダから取り寄せたともいわれる。釘は1本も使われていないそうだ。母屋の他に、蔵が八つ以上、使用人たちの住居など敷地内には多くの建物が建てられ、総工費は現在の金額に直すと二十億円を越すともいわれた。

 

佐藤家住宅 佐藤家住宅 佐藤家住宅 はまます郷土資料館
都郡寿都町歌棄町有戸163 都郡寿都町歌棄町有戸163 都郡寿都町歌棄町有戸163 石狩市浜益区8-5
竣工/明治初期(口伝では明治3年) 竣工/明治初期(口伝では明治3年) 竣工/明治初期(口伝では明治3年) 竣工/明治32年(1899)
★北海道指定文化財 ★北海道指定文化財 ★北海道指定文化財 ★石狩市指定文化財
藤家の初代・栄右衛門は、源義経の家臣の末裔で、建網(たてあみ)の開発を行うなど、北海道漁業の振興に大きく寄与した人物である。佐藤家は明治5年(1878)頃に歌棄に居住し、明治20年頃には道内有数の大きな漁業経営者となった。二代・栄右衛門の時代に和洋折衷の九間取の主屋と邸内社殿などの建造を行った。この家には、漁夫たちの宿泊ゾーンはない、番屋でなく網元の住宅で、通常の鰊番屋の構成とは異なっている。

トップライトの後ろには和風の煙出しもある。内部一階には「ジョウイ」と呼ばれる大広間があり、上部は吹き抜けである。通常の吹き抜けは小屋組を見せるものだが、佐藤家ではこれも排除し、屋根まで壁だけ構成され、その頂部に六角形のトップライトある。山側の奥座敷の建具のデザインは洋風で、唐紙には見事な絵があるなど往時の栄華の残り香が漂わせてている。



主屋は間口13間半(24.3m)の長大な外観を海に向けてたつ。奥行きは10間。開口部に繊細な竪繁格子が連なり、戸袋部分は下見板張りの和風だが、二階はペディメント付の上げ下げ窓を連続させ、軒先を蛇腹にした洋風デザインである。屋根中央部に、望楼のような六角形のトップライトを載せている。保存状態も良く、建築年代、規模、意匠、構造などからみて、現在の漁場建築中では、この建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。

旧白鳥家番屋。白鳥家は江戸末期に山形県酒田から蝦夷にきて、当初は運上屋の下請負で、明治になって漁場経営を始めた。建物は下見板張りの洋風も加味されている。番屋建築の基本的な構造は広い土間が漁夫たちと親方の居住空間を分けている。白鳥家の土間はかなり広く、土間の上部に煙抜きの塔がある。漁夫は仕事から帰ると土間で暖を取り自室に入ったという。この番屋は開口部が多く、他の番屋に比べて明るい。柱が少なく広い空間を持っている。トラスは洋風である。

 

木村番屋 木村番屋 旧中村家住宅 横山家住宅
石狩市浜益区濃昼(ごきびる) 石狩市浜益区濃昼(ごきびる) 檜山郡江差町字中歌町22 檜山郡江差町姥神町
明治26年(1893) 明治26年(1893) 竣工/明治32頃(1889年頃) 明治26年(1893)
★北海道指定文化財 ★北海道指定文化財 ★国指定重要文化財 ★北海道指定文化財
明治後期の番屋建築の多くは洋風が加味されているものが多い。その一つである石狩の木村家住宅は、明治33年(1900)頃に建てられたニシン番屋である。木村家は津軽の竜飛崎で漁師をしていた木村家は初代・源右エ門が文久年間にここで鰊建網を始めた。「濃昼の殿様」と呼ばれた木村家住宅の特徴は、八角形の張り出し窓のついた応接間を持つ和洋折衷である。当時、応接間のついた家は、田舎の村ではとても珍しく、周辺の村々からも大勢の見物人が見学に来たという。
平面構成は、玄関左7室が網元家族の住まいで、右半分が仏間、応接間、畳敷き帳場である。外観は和風よりも洋風色が強く、応接間のとんがり屋根に尖塔の棟飾りがあり、それが建物全体の印象を決定づけている。母屋を中心に多くの付属建物が妻側を海に向けて連なる。撮影した時は、無人状態でかなり老朽化をしていた。撮影中に道路をキジがヒョイヒョイと歩いていく姿が、今も記憶に残る。濃昼とはアイヌ語で「滝壺にしぶきが舞う」との意味という。

江戸時代から漁家を相手に海産物の仲買商を営んだ近江商人・大橋宇兵衛が建てたもの。北前船運んだ若狭地域で多く産出される笏谷石で基礎を積み、ヒバを多用した大きな母屋から浜まで倉が続く通り庭株式の典型的な例である。切妻造妻入り土蔵造。北海道の土蔵造町屋としては古いものである。




横山家は能登から来道し漁業、廻船問屋で栄えた豪商である。建物は奥に長いうなぎの寝床で能登で見る古民家の形態のである。現在も八代目が住まわれており、生き続ける商家として価値が高い。







 

笹浪家住宅 上国寺本堂 松前城本丸表御門玄関 松前城本丸表御門玄関
檜山郡上ノ国町字上ノ国236 檜山郡上ノ国町字勝山 松前郡松前町大字松城144 松前郡松前町寺松城144
竣工/19世紀前期 竣工/宝暦8年(1758/江戸中期) 江戸前期 江戸前期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★北海道指定文化財
鰊漁など営んだ旧家。享保年間の能登国笹浪村(石川県珠洲市)から来道したという。主屋のほとんどはヒバ材である。当時ヒバは藩の許可がないと使えなかったという。笹浪家それだけ格のある家であった。北海道に現存す民家では最古に属しニシン番屋の原形ともいわれる。板葺石置切妻屋根。 開基は嘉吉3年(1443/室町中期)といわれる北海道有数の古刹。正面の縁を内部に取り込むなど寒冷地としての工夫がみられる。




松前城(福山城)本丸御殿の正門。櫓門、切妻屋根。松前城はわが国最後の日本式城郭で現在の天守は昭和36年のRC復元である。




松前城は明治8年に新政府の手によって天守、本丸御殿を残して解体された。後に表御殿は松城小学校校舎に転用され新校舎建設に伴い明治33年に撤去され、門だけは新校舎の玄関に使われた。現在は曳家されて保存されている。この玄関は京都の伏見城の一部の移築といわれる。

 

法源寺山門 龍雲院本堂 函館根津製餡所 華月館(旧ホテル三浦華園)
松前郡松前町寺松城 松前郡松前城大字松城 函館市旭町7-19 滝川市文京町1-1
竣工/江戸中期 竣工/天保13年(1842/江戸後期) 竣工:昭和10年(1935) 竣工/江戸中期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財   ★滝川市指定文化財
室町中期に奥尻島に開創され、江戸初期に松前に移ったといわれる。戊辰戦争の戦火も免れた北海道最古の社寺建築の一つである。細部様式の繰形や唐草模様などの曲線、木鼻や蟇股に江戸中期の様式が見られる。切妻造、こけら葺の四脚門。見た目には特に目立つ意匠は無い。


新潟の宮大工によって建てられた各部に優れた意匠を持つ社寺建築である。庫裏は地元の大工によって建てられた。他に同じ江戸期に竣工した惣門8嘉永4)、鐘楼(寛永2)、土蔵(弘化3以前)も残っており、全て国重文指定という貴重な建築群を有する寺院である。


函館旭町の根津製餡は明治40年の創業。「北海巴こしあん」という乾燥餡子の製造で知られる、函館の老舗会社である。創業者の本間家は、戦前函館で活躍した多くの商人や漁業家と同様に、江戸時代から北前船のルートとして函館と交流のあった越後・新潟の出身。昭和9年大火焼失後の店舗のデザインは、本間家のルーツである新潟の商家建築を参考に建てたという。 ホテル三浦華園の前身は、明治20年に山形出身の三浦米蔵が開設した旅人宿に始まり、2代目庄作は土木請負業を開業する。大正3年に明治後期に建てられた御料局舎の木造平屋建物を譲り受け奥座敷とし、翌年洋風木造2階建部分を増築して旅館三浦屋として開業する。一見堅牢な洋間は、天井飾りや、れんが造基礎の床下換気口のグリル(鉄格子)模様が見どころである。

 

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