列島古建築紀行 第1回

  
写真・文 宮本和義

橋本家住宅 北海道寿都郡寿都町歌棄町  竣工/明治12年(1879) *明治30年説あり

歌棄(ウタスツ)とは珍しい地名だが、アイヌ語で「砂が集まる場所」の意という。橋本家は、元は福井県の廻船問屋で、財を成してこの地で仕込屋を始めた。故にこの家は、福井県の本家の庄屋宅を模して建てられたという。仕込屋とは、漁家に物資や資金を貸す商家である。漁家ではないので正確には「ニシン御殿」ではないが、鰊で財を成したのだからやはり鰊御殿で良いのかもしれない。仕込屋の遺構としては道内唯一のものである。撮影時はは「鰊御殿」の看板を掲げる旅館だった。現在は宿ではなく希望者には公開(要予約)もされている。
家は資材集めに三年、施工に四年の歳月をかけて完成した。
材はすべて北海道外の材料と言われる。欅の大黒柱に太い檜の通し柱が78本。当時ギヤマンと呼ばれたガラスはオランダから取り寄せたといわれる。母屋の他に、蔵が八つ以上、使用人たちの住居など敷地内には多くの建物が建てられ、総工費は現在の金額に直すと20億円を越すともいわれる。
この辺りは全盛期は大変な賑わいで、花街もあって関西などからの買付け商人達を接待した。取引が終わると莫大な現金が大きな家の中に溢れ、夏には戸を開け放ち屏風を立ててお札の虫干しをしたなどという豪快な話も残る。
ニシン漁の時期には加工などを手伝う出稼ぎの人々が歌を唄いながら列を成して雪道をやってきた、多くは東北人だった。
昭和30年頃、乱獲と水温上昇などが原因で鰊は姿を消し歌棄の灯は消え、浜には海鳴りだけが残った。

◆写真 上/主屋ファサード 母屋の左右には倉がある
    中/帳場 奥に山側の座敷が見える
    下/居間 左は帳場 奥は仏間 
    右/通り土間 暖簾が公私空間を分ける
   *写真と現況は少し異なる部分もあるが、基本的には変わらない
 
撮影:2019-08-14

 

雑学 1   廻船問屋
江戸時代、日本海側は北前船で賑わった。日本海沿いに各地に湊があり、そこには回船問屋、船問屋、回漕店があり、船乗りがいた。北海道から来る荷物もあり、各湊から大阪に送る荷物、大阪や各湊から北海道に送る荷物で賑わっていた。創業者の橋本与作も出身地の福井県で船乗りでもしていたのだろうか。明治になって歌棄町に移り、長栄丸、金栄丸の2隻の北前船を持ち大金持ちになったという。
文 古建築研究会 松浦
参考 寿都の観光情報サイト 廻船問屋