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御物頭御番所 御物頭御番所 旧金子家住宅・店舗 旧金子家住宅・店舗
秋田県秋田市・千秋公園 秋田県秋田市・千秋公園 秋田市大町1-3-31 秋田市大町1-3-31
宝暦8年(1758) 宝暦8年(1758) 竣工/明治20年頃(1887頃) 竣工/明治20年頃(1887頃)
★市指定文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財
久保田城内の二の門(長坂門)の開閉と管理、城下の警備、火災の商家などを担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所で、宝暦8年(1758)〜安永7年(1778)の間に建てられたと推定される。城内に残っている藩政時代唯一の建物で、場所も当時のままである。南側の十畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。 北側には七畳半の休息所、台所、便所があり、中二階には八畳の部屋がある。切妻造南庇付、こけら葺、建坪30坪ほどの無装飾で好ましい簡素な建築だが、多くの観光客は見向きしない。久保田城址(千秋公園)内で最も見る価値ある建物と思える。


江戸後期に質屋、古着商を開き明治初期から綿織物の卸を商った。主屋は明治19年の火事の焼失後の建築だが、内蔵は江戸後期のものである。主屋は木造2階建、切妻造、、間口4間、奥行15間でこれは当時の秋田の町屋として一般的なスケールのようである。

 屋根上にある消火用の「天水甕(てんすいかめ)」は現在は2個保存されているが当初は6個あたっといわれ、当時秋田の町屋に多く見られた封家という。昭和10年にここを訪れた建築家ブルーノ・たタウトもこの甕に感動し世界に紹介したといわれる。

 

那波伊四郎商店 旧奈良家住宅・主屋 旧奈良家住宅・座敷蔵 旧黒澤家住宅
秋田市大町4-219他 秋田市金足小泉字上前8 秋田市金足小泉字上前8 秋田市楢山字石塚谷地297-99
江戸中期 竣工/江戸後期(宝暦頃) 明治23年(1789) 江戸中期
★国登録文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
藩政時代に商人町の中心であった大町地区にある。明治11年(1878)に初代・那波伊四郎が秋田藩御用聞商人の那波商店から分家して創業し、明治19年頃から和紙を中心とした商売を始めた。切妻造、妻入り、化粧梁と化粧束を飾る。コミセと呼ばれる1階部分の庇を通りに張り出すなど秋田の典型的な町屋形式の建物である。敷地内に残る蔵も明治期のものである。
宝暦年間に三年の歳月をかけて建設されたという。棟梁は土崎の間杉五郎八である。建物の両端が全面に突き出す両中門造とばれる建築である。奈良家の場合は正面左が上手の中門(座敷中門)、右が下手の中門(厩中門)である。入母屋造、茅葺屋根、書院造の座敷を持つなど格式のある豪壮な姿は県内屈指の豪農であった証明ともいえるものである。
明治23年に建造された土蔵造り二階建ての建物。その他にみそ蔵や米蔵がある。







市内の中通3丁目に建てられた上級武士の住宅。江戸時代、藩士の家は藩の所有物(官舎のようなもの)で藩士の身分や石高に応じて貸与されていた。藩士の身分の変化によって居住者が変わった。黒澤家も5名の藩士が入れ替わって住んだ。黒澤家は主屋、長屋門、蔵、木小屋、氏神などがほぼ完全な形で残っている全国的に見ても稀有な例である。

 

旧嵯峨家住宅 神明社観音堂 神明社観音堂 多宝院本堂
秋田市太平目長崎字上目長崎217-1 秋田県潟上市飯田川町 秋田県潟上市飯田川町 能代市檜山字小間木
竣工/江戸末期 享保19年(1734) 享保19年(1734) 明和8年(1771)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★県指定文化財
元は中級武士で、近世は肝入(村長)を勤めた家柄である。奈良家と同じ両中門造。広い土間に馬屋を備え、座敷部分は広間を中心に上手に二つの座敷、下手に寝室などがある。






街中の公道に面した急な石段を上がると神明社の境内で、拝殿の横にこの観音堂がある。堂は元からここにあったものではなく、八郎潟東岸で建立されたのちに現在地に移されたと伝えられている。一間社、入母屋造、こけら葺で正面に唐破風の向拝が付いている。捨斗の多用、蟇股の豊かな装飾、向拝虹梁の兆候、さらに縁下の腰組に付けられた二種類の挙鼻は建物の割に大きく、この堂独特のものである。

この建物は享保19年(1734)の銘がある棟札によって、江戸中期に再建されたものとされている。小堂ながら近世初頭から中期にかけての建築技術の系統を探るうえで貴重な建築である。よって昭和27年に国重文となった(参考=現地説明板)。他所でも似たような小堂は見た記憶があり、見た目にはそれらと大差なく見えたが、安定感ある魅力的な堂であった。男鹿市の五社堂と合わせ見るには近く、どちらも開放的な場所にたつ良質な建築である。 多賀谷氏の菩提寺の多宝院は下総国下妻に創建されたが、多賀谷氏とともに慶長15年(1610)に檜山に移った。現在の本堂は明和8年(1771)に再建されたもので、曹洞宗本堂の特徴をよく伝えている。廊下は東北地方では珍しい ウグイス張りになっている。 また本堂後方の庭園は京都銀閣寺を模したものといわれる。鐘楼、山門も県指定文化財になっている。棟梁は角館出身の宮大工藤河与右衛門が手掛けている。

 

赤神神社五社堂 赤神神社五社堂 康楽館 康楽館
男鹿市船川港門前 男鹿市船川港門前 鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2 鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2
宝永7年(1710) 宝永7年(1710) 明治43年(1910年) 明治43年(1910年)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
五社堂は標高180mの所に横一列に五棟が並ぶ社殿である。見るには、鬼が積んだという昔話がある999段の石段を登らなければならない。実際に999段あるかどうかは判らない。若者なら15分ほどで登るだろう。高齢者は30分はかかる。鬼の両親と子供三人が祀られているという逸話もある。中堂内の厨子は堂より古く室町後期である。 正面入母屋造、背面切妻造。向かって右から三の宮堂、客人(まろう)権現堂、赤神権現堂(中堂/主神・赤神を祀る)、八王子堂、十禅師堂である。五棟が山際に並ぶ姿は壮観だが、晴れていると両側が木の陰で暗くなるので写真を撮るには誠に良くない。石段を登ることも併せて考えると、春秋の曇り日が最適といえる。列島古建築紀行に掲載
小坂鉱山で働く従業員の福利厚生施設として建てられたもので木造2階建、切妻造妻入りで、屋根は銅板葺、和洋折衷の木造芝居小屋として最古である。小坂鉱山を経営していた合名会社藤田組によって建てられた建立年は棟札によっ判明した。設計者は小坂鉱山工作課営繕掛長の山本辰之助とされる。





 

大館八幡神社 大館八幡神社  

 

大館市字八幡 大館市字八幡    
貞享4年(1687) 貞享4年(1687)    
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財    
大館城の東端にある。祭神は誉田別命(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)。大館佐竹氏の氏神であり、内町の鎮守である。大館城代小場義成が城中に建立し、貞享4年(1687)4代義武が現在地に八幡2社を建立した。1対の神殿は左が正八幡宮、右が若宮八幡宮と呼ばれている。建築様式は柿葺流造で、杉材を使用している。牡丹唐草文が彫られ、金箔が施されている。 文化財に指定されている2棟の本殿は覆い屋の中にあり、中に入らないと見ることは出来ない。写真のような正面向拝にある蟇股は室町後期から江戸時代初期にかけて茨城県内の社寺建築に見られる様式である。佐竹氏が茨城県から秋田県に移された時に同行した大工がいたものと思われる。








 

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