もくじ

表紙
1・霞ヶ浦の地誌

2・古代の霞ケ浦

第九話
 「常陸国風土記」に思う
第十話
 常陸国府の食糧を支える

3・霞ヶ浦の民俗・信仰

第十一話
 河童に供えたかぴたり餅
第十二話
 湖の周辺に多い神社

4、霞ヶ浦と洪水

第十三話
 洪水の常襲地帯

5、霞ケ浦の水運

6、霞ケ浦の水生植物

7、霞ケ浦の野鳥

8、霞ケ浦の魚・貝類

9、霞ケ浦の漁業

10、霞ケ浦とアオコ

11、霞ケ浦の富栄養化

12、霞ケ浦の化学物質汚染

13、霞ケ浦と農業

第十二話   湖の周辺に多い神社

 霞ケ浦周辺には、古くから人々の信仰を集める神社が多いのですが、それらは霞ケ浦との関係が深いようです。

 鹿島神宮と香取神宮は、海から霞ケ浦への入り口の両岸に位置しています。鹿島神宮はタケミカヅチノミコト、香取神宮はフツヌシノミコトを祭神として祀っていますが、両大社ともに、大和朝廷による東国支配の守り神的性格を持っていたと言われています。すな わち両大社は軍神、水神、農耕神でもあり、そのことは鹿島神宮の御船祭、祭頭祭、香取 神宮の御田植神事などの伝統神事でうかがい知ることができます。  

 桜川村阿波の大杉神社は、漁業の神、水上交通の神、また悪疫除けの神として信仰を集めました。毎年十月の神幸祭では、「あんば大杉大明神、悪魔を被ってヨーイヤサ」と、あんば囃子が奉納されます。鹿島、香取の両大社が元々支配者の神であったのに対し、大 杉神社は庶民の神と言われています。

 また霞ケ浦沿岸には、水神様の鳥居や石祠がたくさんあり、地域の人々が利水、治水、水難防止、舟運、豊作豊漁の願いをこめて祀りました。土浦市川口の水天宮は、その代表的なものです。

 変わったところでは、つくば市神郡の蚕影神社は養蚕の神ですが、昔、インドの姫君が霞ヶ浦を経て筑波山麓に漂着し、養蚕の技術を伝えたという興味深い伝説が残っています。  

 

土浦の水天宮・・・天保11年(1840)、久留米二十一万石城主有馬頼徳公の三女竹姫が土浦九万五千石城主土屋寅直公にへお嫁入りの際、久留米水天宮の分霊を捧持し、土屋藩邸内に祀ったものがはじまりである。現在は川口町の運動公園にある。本殿は覆屋の中にあり、市の指定文化財になっている。一間社流造、軒の板支輪に「棟梁金子清吉藤原国次」の銘がある。金子清吉は土浦在住の大工で等覚寺鐘楼(大手町)も手がけている。

江戸の有馬邸の水天宮・・・文政元年(1818年)、9代藩主有馬頼徳が、三田にあった久留米藩の江戸屋敷に久留米の水天宮の分霊を勧請したのが東京の水天宮のはじまりである。藩邸内にあったため一般の参拝は出来なかったが、「安産の霊験あらたか」なことが評判にり、塀の外から賽銭を投げ入れる人が続出し、毎月五の日に限り、邸内の通り抜けて参拝を許可をした。賽銭や縁起物などで年に2000両の収入があり、財政難の久留米藩の助けになった。現在の東京水天宮

久留米の水天宮・・・社伝によれば、寿永4年(1185)、高倉天皇の中宮・平徳子に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使局伊勢が筑後川のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。当初は尼御前大明神、尼御前神社、尼御前宮などと呼ばれた。久留米藩第2代藩主有馬忠頼によって現在地に遷座し、社殿が整えられて、社名を水天宮に改められた。現在の総本宮である久留米水天宮である