愛媛県

 

松山城天主 松山城乾門 太山寺本堂 大宝寺本堂
松山市丸の内 松山市丸の内 松山市太山寺町1730 松山市南江戸5-10-1
竣工/1852(嘉永5年) 竣工/慶長年間(1596-15) 竣工/嘉元3年(1305) 竣工/鎌倉初期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国宝 ★国宝
天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にある。連立式天守を備えた城郭といわれている。 乾とは方角を表す言葉で、北西の意。この門、櫓は慶長年間正木城から移建されたといわれ、乾一ノ門とともに、松山城の搦手(裏)の門の中で、最も重要な構えとなっている。


堂内から発見された墨書により嘉元3年の建立と判明。桁行7間、梁間9間、屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大。柱は円柱で、正面の柱間をすべて蔀とするなど、建築様式は和様を基調とするが、虹梁の形状など細部に大仏様を取り入れている。 桁行3間、梁間4間、寄棟造、本瓦葺。和様で柱はすべて円柱。垂木間隔が異なることなどから平安末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉初期の建立と考えられる。屋根は元茅葺であったものを延享2年の修理で瓦葺に改修と推察される。県下最古の木造建造物。

 

石手寺仁王門 石手寺三重塔 浄土寺本堂 道後温泉本館
松山市石手2-9-21 松山市石手2-9-21 松山市鷹子町1196 松山市道後湯之町5-6
竣工/寛永7年(1630/江戸前期) 竣工/明治6年(1873) 竣工/文明14年(1482/室町期) 竣工/明治27年(1894)
★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺、高さ7m。蟇股の彫刻は前後両面共に異なった唐草模様が施され鎌倉期の楼門建築の代表例の一つとされる。門内に安置する金剛力士像は鎌倉時代の作で愛媛県の有形文化財に指定。 三間三重塔婆、高さは25m。 円柱上に和様三手先、軒は各層とも二軒、平行繁垂木。中備は間斗束、初重は斗のみ。初重は切目縁、二・三重には縁・組高欄。心柱は、初重の四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。 桁行5間、梁間5間、寄棟造、本瓦葺。正面5間の中央3間は両開きの唐桟戸、両端の各1間と両妻面の表側1間には引き違い格子板戸を吊り込み四周に切目縁を廻らせている。内部は表から2間を外陣とし、奥3間が内陣。 道後湯之町初代町長・伊佐庭如矢が百年後の道後の繁栄を見据えて明治27年に改築した木造三階建の建物。棟梁は松山城の城大工・坂本又八郎。大屋根にギヤマンを使用した搭屋を造りその上に白鷺が据えられている。

 

豊島家住宅 南斎院(ミナミサヤ)の長屋門 大村家住宅 商いと暮らしの博物館
松山市井門町421-1 松山市南斎院町 喜多郡内子町甲 喜多郡内子町甲1938
竣工/宝暦8年(1758/江戸中期) 竣工/明治期 竣工/寛政年間 竣工/江戸末期=明治初期
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
広大な屋敷。主屋は直屋に角屋を配した特色から「井門の八棟造」と呼ばれる。屋根の棟の形状は逆Z字型、上屋は入母屋造、茅葺、四方は本瓦葺である。内部は居室部、居室座敷取合部、座敷部から成る。非公開 南斎院は斎院村が北と南に分かれたもの。大名の武家屋敷門の流れをくむ長屋門を持つ住宅が5軒連なる。表札も同姓だが現在は親戚でもないらしい。明治には長屋門も自由に造れるようになる。建造経緯は不明である。 江戸時代から「大和屋」の屋号で商いをした商家である。主屋は町並みの中で最古の建物の一つ。白漆喰壁に三つの虫籠窓を設けた伝統住宅建築。桁行10.7m、梁間10.9m、切妻造、桟瓦葺。裏座敷、釜場、藍蔵もある。 佐野薬局として明治迄使用されていた商舗である。使用されていた建物を内子町が買い取り,大正10年頃の商家の様子を再現している博物館として開館。間口は広くないが奥行があり、中庭の奥には蔵も残っている。

 

  
内子の町並み 上芳我家住宅(木蝋資料館)  上芳我家住宅(木蝋資料館) 内子座
喜多郡内子町八日市喜多郡内子町八日市  喜多郡内子町八日市 喜多郡内子町内子2102
竣工/ 竣工/明治27年(1894) 竣工/明治27年(1894) 竣工/大正5年(1916)
★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
江戸時代の内子は大洲藩の領地で主要街道の要所、小田川の水運による物資の参集地として繁栄した。商品作物のハゼノキが植えられ木蝋の町として発展した。本芳我家、大村家などの商家が軒を連ね、芝居小屋・内子座もある。 本芳我の分家。1階は白漆喰による塗籠格子と海鼠壁で構成される。本家への遠慮か装飾性は控え目だがシンプルな美しさ。南妻壁が土蔵の様な顔であることが印象的である。主屋や附属屋など全部で10棟の建物が文化財指定。 敷地926坪に主屋、炊事場、離れ座敷などが整然と並ぶ。桁行15.9m、梁間12.7mと本家を凌ぐ大きさである。釜場など木蠟生産の最盛期の生産施設、また、製蠟用具1.444点が保管されており、木蠟資料展示棟で見学できる。 大正天皇の即位を祝い創建された内子座。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋として建設された。回り舞台や花道、桝席、楽屋などがあり当時の建築技術の粋が集められた建造物。芸術文化の拠点。

 

旧山中家住宅 臥龍山荘 大洲の町並み 卯之町の町並み
上浮穴郡久万高原町上黒岩1032 大洲市大洲411-1 大洲市 西予市宇和町卯之町
竣工/江戸中期~後期 竣工/明治期 竣工/ 竣工/
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区
桁行7間、梁間3間半、茅葺。平面は桁行に三分し上手は「ざしき」次に「いま」その前面に縁側を付け下手は「まえ」、裏に「おく」を取る。土間が狭い、山村民家。別子山村からの移築である。 肱川流域の臥龍淵に臨む三千坪の山荘。臥龍院、不老庵、知止庵(茶室)の数奇を凝らした三建築がある。明治の貿易商・河内寅次郎が10年掛けて建築したものである。平成28年に国重文となった。 伊予の小京都と言われる城下町。町筋は昔とほとんど変わらず肱川に平行して東西に町筋があり、志保町界隈には今も白壁、土壁の土蔵が残る。NHKドラマ「おはなはん」で知られる町でもある。 江戸時代には宇和島藩の在郷町とした栄えた。妻入と平入の町屋が混在し、白壁、半蔀(はじとみ)、格子、持ち送り等の伝統的意匠の建築が見られる。開銘学校などの擬洋風建築も点在している。

 

申義堂 開明学校 宇和島城天守 木屋旅館
西予市宇和町卯之町 西予市宇和町卯之町3-109 宇和島市丸之内 宇和島市本町追手2-8-2
竣工/明治元年(1868) 竣工/明治15年(1882) 竣工/寛文4-11年(1664-7) 竣工/明治44年(1911)
★市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国登録文化財
明治5年に新政府の学制改革により開明学校の初代校舎として近代教育が始まった。木造平屋、切妻造、桟瓦葺。右手に玄関、奥の床の間付10畳が教室に当てられた。座敷の隣に6畳2室と3畳の部屋などあり、教師の住居と計画されたと思われる。 住民の寄付により建設された和洋折衷の小学校。文明開化をめざした町民の教育に対する情熱が込められている。アーチ型の窓にはドイツ製のガラスが使用されている。長野県松本市の開智学校とは姉妹館として交流する。現在は教育資料館である。 独立式天守で三重三階、白壁の総塗籠造、土台から棟までの高さは15.8m。初層は方六間、二層は方五間、三層は方四間である。正面最上層の屋根に大きな唐破風、二層には千鳥破風、一層には二つの千鳥破風を持つ。全国現存12天守の一つである。 饅頭屋・木屋徳右衛門の息子・徳三郎が明治44年に堀端通りの現在地に開業した商人宿。二階建、切妻造、桟瓦葺。1階は連子格子と犬矢来、二階はガラス窓が連なる。軒先には創建当時の門灯がある。近年リニューアルし新しい宿泊施設となった。

 

禅蔵寺薬師堂 善光寺薬師堂・厨子    
宇和島市上畑地大門 北宇和郡鬼北町小松    
竣工/江戸中期 竣工/室町後期 竣工/  竣工/
★県指定文化財 ★国指定重要文化財
方三間、宝形造、茅葺。外周りの柱上には組物はなく、柱、軒、外壁なども華美でない。花新名窓は禅宗様の古い形のものである。素朴で好感の持てる草庵風の仏堂である。 禅宗様、方三間、宝形造、茅葺。堂内の中央に四天柱を立てた形式(二本に省略)は平安時代以来の一間四面堂を継承したものと考えられる。出入口には框を組んだ桟唐戸。    

 

2020.07.11

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