長野県・北信

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善光寺本堂 長國寺本堂 真田信之霊屋宝殿 真田信重霊屋
長野市大字長野元善町 長野市松代町田町1015-2 長野市松代町松代 長野市松代町西条
竣工/宝永4年(1707/江戸中期) 竣工/明治19年(1886) 竣工/万治3年(1660/江戸前期) 竣工/慶安2年(1648/江戸前期
★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
間口役24m、奥行厄54m、高さ29mという国内有数の大きさの木造建築、Tの字型の形が鐘を叩く撞木似ているところから「撞木造」と呼ばれている。大工甲良豊前入道宗賀の設計によって宝永四年七月完成した。
元和8年(1622)真田信之が松代に移り、当時の住職を開山として建立した寺。前本堂は明治5年の火災で焼失し再建したもの。急勾配の屋根の上に寺には稀な鯱が乗るが、これは松代城のもという。

長谷寺内。霊屋は離れた場所にあり、火災を免れている。ここには真田信之、真田幸真、真田信弘の霊屋三棟がある。信之霊屋は入母屋造で正面に千鳥破風と軒唐破風付の向拝を設ける。内外を極彩色と装飾彫刻で飾る。
西楽寺。信重は信之の三男。霊屋は方三間、宝形造、向拝一間、こけら葺。組物は唐だが和様の手法も混在している。内部は全面一間が外陣、後部二間を内陣としている。保存が良く、地方領主の霊屋として重要な遺構。環境も甚だ良好である。

 

開善寺経蔵 横田家住宅 宿坊極意 宿坊極意
長野市松代町西条3671 長野市松代町西条1434-1 長野市戸隠中社3354 長野市戸隠中社3354
竣工/万治3年(1660/江戸前期) 竣工/寛政6年(1794/江戸後期) 竣工/文化5年(1815/江戸後期) 竣工/文化12年(1815/江戸後期)
★県指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国登録文化財 ★国登録文化財
方形の主屋の周囲に裳階を設けた宝形造。正面と背面に桟唐戸と一部に連子窓があるだけの開口部を極力少なくした板蔵の一種である。内部は格天井をあげ中央に八角形の輪蔵を据える。現在は屋根材が変わりやや失望感を否めない。 松代藩真田家に仕えた禄高150石の中級武士の屋敷。表門、隠居屋等の付属屋もある。庭側の突出部が建物に変化を与えている。改造が少なく、松代の武家住宅の伝える代表的遺構である。

戸隠神社の聚長家(宿坊)。聚長家は全国から集まる信者に祈祷の便宜や宿泊の世話をある仕事である。建物は積雪に強いセガイ造で、神殿は東西6間半、庫裏は7間×11間、茅葺屋根の厚さは1mもある。



 

円光寺太鼓楼 如法寺観音堂 如法寺観音堂 浄光寺薬師堂
須坂市大字小山360 中野市大字中野字観音平 中野市大字中野字観音平 上高井郡小布施町大字雁田
竣工/明治27年(1894) 竣工/天保7年(1836/江戸後期) 竣工/天保7年(1836/江戸後期) 竣工/応永15年(1408/室町中期
★市指定文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財 ★国指定重要文化財
越後の棟梁・山岡武兵衛と大工・勝山により建てられた。一階部分は江戸末期に建てられたもと推定されている。八面の窓や軒裏の木組みなど手の込んだ造りである。不等辺八角形の平面を持つ楼閣建築。 大同2年に空海が自作の千手観音を安置したのが寺の始まりであると伝わる。観音堂は別称「大悲閣」と呼ばれる傾斜地に建てられた懸造りの御堂、桁行5間、梁間3間。
参詣者を招き入れするため、側面に向拝が付く。天井は内外陣とも格天井で極彩色の観音像が描かれている。
 列島古建築紀行に掲載

創建は天平2年(730/奈良時代)に僧・玄明が開山したのが始まりと伝えられる古刹。薬師堂は方三間、茅葺。本尊の薬師瑠璃光如来、十二神将は応永16年(1409/室町中期)作で県指定文化財。

 

小林一茶旧居 小林一茶旧居 小林一茶旧居 つばたや旅館
上水内郡信濃町柏原48 上水内郡信濃町柏原48 上水内郡信濃町柏原48 下高井郡山ノ内町(渋温泉)
竣工/江戸時代 竣工/江戸時代 竣工/文政10年(1827)頃 竣工/明治初期
★国指定史跡 ★国指定史跡 ★国指定史跡
一茶は50才の時に故郷の柏原に戻り二度の結婚をし子供にも恵まれたが文政10年の火災で家を失った。


その後は焼け残った土蔵で暮らし、その年の冬に生涯を閉じた、享年65才。素朴な土蔵は間口3間半、奥行2間2尺。


小林弥兵衛邸。弥兵衛は一茶の弟で、大火後建てられたもの。桁行4間、梁間3間、寄棟造、四つ間取り。


三代目当主が私財をなげうって村人を救ったことがあり、その功で松代藩主真田家より本陣を仰せつかった歴史の宿。小さな天井の高い風呂があり知られるが、これは大正時代の竣工。

 

知識寺仁王門 知識寺大御堂 水上布奈山神社本殿 稲荷山の町並み
千曲市大字上山田八坂1197 千曲市大字上山田八坂1197 千曲市大字戸倉1990 千曲市大字稲荷山
竣工/室町時代 竣工/天文10年(1541/室町後期) 竣工/寛政元年(1789/江戸後期) 竣工/
★市指定文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区
仁王門も室町時代の竣工、三間一戸、寄棟造茅葺屋根。なぜ大の字が付いたかと思うほど大御堂というには小さいが茅葺の門と御堂の一体感が良い。




室町時代には領主村上氏の庇護をうけ、天文10年に廣意和尚によって現在の本堂が再建される。桁行4間、梁間3間、寄棟造茅葺屋根、禅宗様式の仏堂。本尊の十一面観音菩薩立像は行基が平安後期に彫ったもので、像高306cmの巨像で国重文。


覆屋内。一間社流造、向拝正面に軒唐破風を付け、屋根はこけら葺。軸部材も彫刻も欅を主とした素木で無彩色である。向拝は連三斗、母屋は出組の組物を使用するなど江戸後期の一般的手法だが建築彫刻の表現に見るべきがある。本殿の棟梁は、諏訪の大隅流、柴宮長左衛門矩重。

上杉景勝が千曲川の氾濫原であった葦原に稲荷山城を築き、城下町として始まり、街道や宿場の整備が行われ、北国西街道一の宿場町として栄えた。善光寺平に運ぶ上方からの荷物を受け入れる問屋と周辺農村への生活物資を供給する商店で構成され、幕末かからは、生糸、繭の集散地として大商業都市となった。

 

安楽寺八角三重塔 中禅寺薬師堂 中禅寺薬師堂 前山寺三重塔
上田市別所温泉2361 上田市前山1721 上田市前山1721 上田市前山300
竣工/鎌倉後期 竣工/ 竣工/平安末期  竣工/室町末期 
★国宝 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財  ★国指定重要文化財
全国に一つしかないという木造八角三重塔である。初層部分にも裳階(庇)が付いているため四重塔に見える。従って性格には「裳階付八角三重塔」である。各層には縁や手摺も扉もなく、二、三層には連子窓がある。これは禅宗様の建築にあるもである。垂木は扇垂木でこれも禅宗様式に見られるものである。信濃の田舎になぜこのような見事な建築ができたのか不思議だが、塩田の地は鎌倉と深い繋がりあり、北条義政が舘を築くなど重要な地であった。 中部地方最古といわれる木造建築。阿弥陀堂形式の方三間堂。阿弥陀堂形式は平安晩期にできた形で、代表例に岩手県平泉の中尊寺金色堂がある。堂は内外とも余分なものはなく端正な気品に満ちている。伽藍と共に自然豊かな風景が堂をさらに引き立てている。



  「未完の塔」とも「未完の完成塔」ともいわれる。その理由は勾欄が一層だけにしかない、縁の板を載せる貫が出ているが縁がない等のである。塔は「塔婆」だから本来上がるものではないので、二層、三層の縁や手摺は飾りなのでつまりこの形で良いこの形で良い、つまり完成なので「未完成の完成塔」という言い方もできる。高さ19.5m。本堂は瓦葺の箱棟をのせた寄棟造、茅葺で大きな唐破風向拝を持つ大建築。竣工年不明。

 

塩野神社本殿 塩野神社拝殿 常楽寺本堂 法住寺虚空蔵堂
上田市前山1681 上田市前山1681 上田市別所温泉2347 上田市東内4313
竣工/寛延3年(1750/江戸中期) 竣工/寛保3年(1743/江戸中期) 竣工/江戸中期  竣工/文明16年(1486/室町中期) 
★市指定文化財 ★市指定文化財 ★市指定文化財 ★国指定重要文化財
『日本三代実録』や『延喜式」に「式内社」として掲載されいる。本殿は一間社流造といい。間口、奥行の長さはほぼ同じで向拝が階段の上につく。屋根は銅板葺、軒の垂木だけが朱色に着色され、彩色彫刻で埋められている。
拝殿は方形、重層、切妻造、銅板葺。二階建の拝殿は珍しく楼門にも見える。大工棟梁は末野忠兵衛、この一族は上田房山に住み代々宮大工として多くの仕事を残している
 列島古建築紀行に掲載

北向観音本坊。本堂は寄棟造、茅葺で正面に向拝を設け、間口10間は県内の江戸中期の天台宗系本堂としては屈指の規模である。大工は上田房山の末野忠兵衛と思われれる。内部は前側に細長い広縁をとり、中央に外陣、内陣を配し鮮やかな天井絵がある。 法住寺は平安時代に創建されたといわれる天台宗の古刹である。堂は正面4間、奥行5間、内部は内陣と外陣が格子戸で仕切られている。全体には和様だが一部に禅宗様も見られる。厨子も同時代と推定されている方一堂。安置される虚空菩薩像も国重文である

 

西光寺阿弥陀堂 信濃国分寺本堂 信濃国分寺三重塔 瀧水寺観音堂
上田市富士山3036 上田市国分1051 上田市国分1051 上田市殿城1270
竣工/室町時代 竣工/万延元年(1860) 竣工/室町中期 竣工/天保13年(1842/江戸後期)
★県指定文化財 ★県指定文化財 ★国指定重要文化財
空海が大日如来、阿弥陀如来を彫刻して小堂を建立したことが始まりといわれる。弘化3年には火災で本堂、庫裏などを焼失、阿弥陀堂、山門は類焼を免れた。堂は方三間、こけら葺、内部は前方一間が外陣、後方二間が内陣である。竣工年は不明だが禅宗が普及した時期の建築と考えられ室町頃と推測される。 本堂は天保11年(1840)起工し万延元年(1860)に完成した、20年に及ぶ歳月費やした建物。間口約5間半、奥行8間、周囲に2.4mの裳階を付けているので重層に見える。唐破風向拝付。棟梁は小諸の但馬喜平、彫刻は上田の竹内八十吉、瓦師は三河の人。
三重塔は和様で統一された整った塔で、柱や窓など形が国宝大法寺三重塔に良く似ているので外見は習ったのかも知れないが、内部は異なっている。天井の外側の四方に禅宗様の「如意頭文」で飾られている。


創建は正応3年(1290)頃、慧算が龍宮明神を勧請したのが始まりといわれる古刹。以来、神仏習合し隣接する龍宮神社の別当寺院として存続した。懸造りの観音堂の内部には恵心僧都作と伝わる十一面観音が安置されている。堂は樹々に囲まれた急峻な岩上にあり自然と調和して壮観である。

 

笠原工業繭蔵 旧上田倉庫蚕繭集積倉庫 上塩尻の町並み 上塩尻の町並み
上田市常田 上田市中央1-1-21 上田市上塩尻 上田市上塩尻
竣工/明治38年(1905) 竣工/明治27年(1894) 竣工/ 竣工/
★国指定重要文化財 ★国登録文化財
笠原工業(旧常田館製糸場施設)は岡谷出身の実業家・笠原房吉が明治33年に創業した機械製糸工場。三階繭倉庫と五階繭倉庫は多窓式という自然乾燥を前提とした形式の倉庫である。木造、寄棟造、桟瓦葺一部鉄板葺。多層の木造繭倉庫は全国的にも減って貴重な遺構である。




かつて上田は繭出荷の前線基地として活躍した。当時は数十棟の繭蔵が駅前に軒を連ねていたという。明治43年に上田倉庫は諏訪倉庫に合併吸収。飯島商店二代目社長・飯島春三は昭和45年に次々に解体されてゆく倉庫の保存、活用を考え諏訪倉庫から2棟の繭蔵を購入し事務所、工場に転用した。飯島商店の店舗(大正13・洋風)も国登録文化財。


しなの鉄道・西上田駅から歩いて5分ほど、虚空蔵山南麓に集落はある。旧北國街道に面した養蚕農家集落である。町並みはかなり長い。この辺りは、古くから上田紬の産地だったため商人も多く、一般的な農村集落とは異なり、武家屋敷を思わせる立派な屋敷も多いく見られ、白壁に煙抜き(気抜き)の小屋根が乗る見事な養蚕建築を見ることができる。上塩尻は一帯は、紬工場を支えた上田商人たちの集落なのである。 宝暦7年養蚕家・塚田与右衛門は、江戸時代の養蚕技術書「新撰養蚕秘書」を記した。上塩尻からは、かつては優秀な養蚕家も輩出しているようだ。今は、隣りの上田の町の発展からは取り残されたような静かな集落風景である。上田に出ると駅から近い所に、旅籠や商家が軒を連ねる北國街道の宿場町「柳町」がある。上塩尻の静けさとはとうって変わった観光気分を満喫できるので、両方の昔町を味わうと良い。

 

柳町の町並み 本海野の町並み 本海野の町並み 春原家住宅
上田市長野県上田市中央 東御市 東御市 東御市和(カノウ)7192-1
竣工/ 竣工/明治27年(1894) 竣工/ 竣工/17世紀末頃
★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財
旅籠や商家が軒を連ねる北國街道の宿場町。かつては呉服屋だけでも25軒もあったという。白壁に格子戸の民家、杉玉の下がる造り酒屋などが並び、往時の様子を伝えるべく修景され、道行く人を楽しませている。江戸時代から大正時代まで、上田の経済を牽引した町でもある。上田駅からも丁度良い散歩距離で、訪れる観光客の増えているようだ。
江戸時代の旅籠造りと明治の養蚕造りの建築が混じる北国街道の宿場町。見事な卯達を持つ家があり見応え十分な町並みである。無電柱化や車道と歩道の分離もされている。日本の道百選にも選定。有名な割に騒々しさがないのは、土産物店等が少ないためと思われ好ましい。


  春原家は江戸時代初期からこの地に住み、苗字を許された家柄。細い小屋梁を多用し居室部が閉鎖的で柱が一間毎に建ち軒が低い、長野県東南部の農家この時代の特色が良く表れている。寄棟造、茅葺、桁行10間半、梁間4間半、全体に細長く土間部が6割近くを占め、間仕切り壁が多い。


 

旧和(かのう)学校 真楽寺三重塔 旧小諸城三の門 旧小諸本陣
東御市海善寺1241-1 北佐久郡御代田町塩野142 小諸市丁字三之門内311 小諸市市町1-2-29
竣工/明治12年(1879) 竣工/寛延4年(1751/江戸中期)頃 竣工/明和3年(1766)頃 竣工/18世紀末~19世紀初期
★県指定文化財 ★県指定文化財 ★伝統的建造物群保存地区
「心は日本人らしく知識は西洋文化を」という和魂洋才型の人間育成を目的地して建てられた学校。建築も和風をベースに洋風が参加している。入母屋造、瓦葺、内部はアーチ型の入口や椅子式である。佐久の中込学校、松本の開智学校に次いで古く、上田、小県地方では最古の学校建築である。


方三間、総高18m、擬宝珠高欄を付け縁を廻らせている。正面中央間桟唐戸、脇間連子窓、脇間板張り。背面は三間とも板張り。






二層、寄棟造、瓦葺で両袖の塀には矢狭間、鉄砲狭間がつけられている。宝暦年間の城郭絵図では入母屋造、こけら葺となっているので、明治中期頃に改修されたものではないかと考えられている。






小諸宿の本陣と問屋を兼ねていた上田家の住宅。二階建、切妻造、桟瓦葺の大規模な住宅建築である。二階を太い出梁により75cm前方に持ち出し壁面には連続した格子窓を設け、その上の妻壁に看板用の小型切妻屋根を設けている。一階道路面には間口いっぱいに設けられた濡れ縁っと一間巾の畳廊下がありその内部に18畳の大部屋がある。これは大名行列に伴う荷物の運び込みを考慮したものである。

 

2020.02.24 12.20修正

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