石川県

 

金沢城石川門 金沢城三十間長屋 尾崎神社 俵屋主屋
金沢市丸の内71 金沢市丸の内71 金沢市丸の内 金沢市小橋町2-4
竣工/天明8(1788/江戸中期) 竣工/安政5年(1858/江戸後期) 竣工/寛永20年(1643/江戸前期) 竣工/江戸幕末頃
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★金沢市保存建造物
金沢城公園の入口となっている石川門は石川郡方向を向いていたので「石川門」された。形式的には桝型門で表門、多門櫓、渡り櫓、菱門、太鼓塀で構成される全体を石川門と呼んでいる。



金沢城本丸附壇にある長屋で、長さ36間半余りの二階建の土蔵。入母屋造、鉛瓦葺、白壁で腰壁はなまこ壁、二階の腰に鉛瓦葺の庇を付けている。金沢城には14の長屋があったと伝えられている。元は軍備倉の強固な造りで千飯が貯蔵されていたといわれ、後に鉄砲蔵とも呼んだらしいという。 北の丸に四代藩主・前田光高が天照大神、東照宮(徳川家康)、三代藩主・前田利常を祀る東照三所大権現社として建立した。明治7年に神仏分離令により尾崎神社と改称され明治11年に現在地に移築された。朱塗りの社殿は日光東照宮の小型版と言った印象である。
金沢で最古の飴店。創業は天保元年(1830)。元は米穀商で天保元年に現在地に移り創業。建築年代は不明だが藩政末期といわれる。間口6間半(11.8m)、奥行11間(19.9m)、切妻造、二階建の主屋と土蔵、中庭を介して離れに3畳の茶室などが設けられている。白地に「あめ」大書した暖簾で知られる。

 

石黒薬局 東茶屋街の町並み 主計茶屋街の町並み 江沼神社長流亭
金沢市尾張町1-10-8 金沢市東茶屋街 金沢市主計(かずえ)町 加賀市大聖寺八間道
竣工/明治27(1894) 竣工/ 竣工/享和元年(1801/江戸後期) 竣工/宝永6年(1709/江戸中期)
★金沢市保存建造物 ★伝統的建造物群保存地区 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定重要文化財
(福久屋石黒傳六商店)尾張町内最古の建築。軒の低い二階建の町屋。二階壁面は白漆喰塗りで虫籠窓である。両脇には袖壁が付く。内部にはカマド、流しがそのまま残されており、古い大型商家として非常に貴重な遺構である。


金沢は武家屋敷と寺町と花街に三分されている。花街は「東茶屋街」「主計街茶屋街」「西茶屋街」がある。町名はここがまだ原野だった頃に茶店が置かれたことによるといわれる。文政10年に遊郭が置かれ、天保2年に遊郭が廃止、慶応3年に再興されて東新町と呼ばれて「東の廓」と呼ばれた。 町名は藩士・冨田主計重家の上屋敷があったことに因む。明治2年(1869)に遊郭が置かれた。浅野川に沿って町並みが展開し建物は明治~昭和初期竣工のものに戦後のものが混ざっている。



三代藩主・前田利直が建てた別邸。当初は大聖川畔にあることから「川端御亭」と呼ばれていたが、利直の雅名から長流亭と称されるようになった。木造平屋、桁行5間、梁間4.5間、寄棟造、こけら葺。小堀遠州の死後数十年の後にできた建築だが、図面などがあったのか遠州ゆかりの建物といわれる。

 

忠谷家住宅 橋立の町並み 旧春木家住宅 小松天満宮本殿
加賀市橋立町ウ159-1 加賀市橋立町 加賀市大聖寺敷地町子8 小松市天神町2
竣工/江戸末期 竣工/ 竣工/江戸末期? 竣工/明暦3年(1657/江戸前期)
★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区 ★国指定民俗文化財 ★国指定重要文化財
伝建地域内にある北前船の船主の家。切妻造、桟瓦葺。天保年間に独立船主となって間もなく建設されたと思われる住宅で、加賀市内の現存の北前船船主住宅としては最古である。20畳の居間背後に二列6室を配した当地特有の間取りを持つ。 北前船の船主の集落。北前船とは日本海側から下関を廻って瀬戸内に入ってくる船のことである。加賀では塩屋、瀬越、橋立が三大基地だった。寛政8年(1821)の記録で橋立だけで42人の船主、持ち船100隻を超えた。

大日川水系の最奥地にあった小型民家。特徴は稗や粟を乾燥させるアマボシダイがオエ(居間)に2つ設置させている。かつては白山麓に多くあったが現在はこの1棟だけである。木造平屋(一部2階)、入母屋造、茅葺、三方庇付、外壁真壁造、素木板張り。 加賀藩主・前田利常が隠居城である小松城守護のため、鬼門に当たる梯川の北側に京都の北野天満宮を模し縮小して造営したと伝わる。本殿、石の間 幣殿(前面は拝殿に接続)で構成される。 大工は山上善右衛門。

 

那谷寺本堂 那谷寺三重塔 黒丸家住宅 座主家住宅
小松市那谷町 小松市那谷町 珠洲市若山町上黒丸2-33 七尾市中島町字藤瀬4-17
竣工/寛永19年(1642) 竣工/寛永19年(1642) 竣工/江戸前期 竣工/享保年間(江戸中期)
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財
高野山真言宗別格本山。寺伝によれば養老元年(717)泰澄法師が千手観音を安置したことが始まりとされる。南北朝時代に戦乱により荒廃したが、近世になって藩主・前田利常が再建。大悲閣(本堂)この時の大工は気多神社を建てた山上善右衛である。

この三重塔は、禅宗様を基調としており、きわめて安定した外観をもっている。多数の建物が国重文となっている。元禄2年、奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、岩肌を臨み句を詠んでいる。石山の 石より白し 秋の風 芭蕉。 過去帳に室町時代から続く祖60人の記載があり中世名主の系譜をひく家柄であることが判る。竣工年は明らかではないが、石川県の民家の中では古い様式であり、その特徴として「にわ」にたつ4本の独立柱があげられる。

当地区の鎮守である藤津比古神社の別当寺院だった妙成寺の座主房を称した家柄で、江戸時代には村役人を歴任した。中能登地方に残る最古の農家建築で、入母屋造、茅葺。外壁は土壁鏝押え、腰壁は木皮張りで外壁を保護している内部はチョウナ仕上げ。柱は1間間隔である。

 

喜多記念館(商家・喜多家) 上時国家住宅 鳳至上町の町並み 黒島の町並み
野々市市本町3-8-11 輪島市町野町南時国 輪島市上町 輪島市黒島地区
竣工/19世紀中期 竣工/江戸後期 竣工/ 竣工/
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財 ★伝統的建造物群保存地区
元禄時代から醤油屋を営んできた商家。元は高崎を姓とした福井藩の武士だった。明治24年の大火で家屋は焼失し、金沢材木町の醤油屋(たいや惣兵衛)の建物を購入して移築した。正面7間半、二階建の大きく美しい町屋建築である。 名工・安幸が28年かけて完成させた巨大民家。入母屋造、茅葺、屋根高18m、正面玄関は総欅の唐破風造である。大屋根を支える梁は周囲2mの松材である。内部は表側に大庄屋様式の公務用座敷、裏側に私用部屋を配している。建坪189坪。 この辺り一帯は江戸時代に北前船の寄港などで大い栄えたという。町には、住まい兼作業場の「塗師屋造り」を主とした家、蒔絵師の家、造り酒屋、下駄屋、和菓子屋などの老舗が並ぶ。町全体で輪島塗を支えているような感じもある町である。 北前船の船主や船頭の居住地として栄えた港町で、昔ながらの町割りが良く残されている。家並みは平入りと妻入りが混同しているが、黒釉薬瓦に格子、下見板張りといった建築的要素が揃っているためか統一感はある。角海家は(国重文)。

 

上大沢の集落 妙成寺本堂 妙成寺五重塔 妙成寺書院
輪島市上大沢 羽咋市滝谷町 羽咋市滝谷町 羽咋市滝谷町
竣工/ 竣工/慶長19年(1614) 竣工/元和4年(1618)  竣工/万治2年(1659) 
★国指定重要文化財 ★国指定重要文化財  ★国指定重要文化財
能登半島の輪島市西端の集落で、「間垣の里」という看板が掲げられている。十数戸の漁村集落で小さな湾に面している。集落の左右には高い山塊があり、端は海に落ち込む。「間垣(まがき)」は、日本海から吹きつける風から家を守る高い竹垣で、上大沢の間垣は美しいことで知られている。 本堂、五重塔を始め10棟が国重文である。建物配置の特徴は本堂を真ん中に右に祖師堂、左に三光堂という三御堂が横一列に並ぶ点にある。これは近世以前は各地の日蓮宗(法華宗)寺院に見られたものだが、現在は当寺だけに残る姿である。修理の際に発見された墨書銘は「慶長十七年大工坂上又三郎」。 加賀藩第三代藩主・前田利常の生母寿福院の発願によって築かれた五重塔。棟札によれば、大工は「越前北庄住坂上越後守嘉紹」であり、建仁寺流の越前坂上一門の手になったことが知られ、坂上嘉紹は山上善右衛門の父の坂上右近ではないかと考えられている。
3代利常の遺志により、利家及び利常の生母寿福院と息女浩妙院の冥福を祈って御霊屋を営み、あわせて参詣の休息所にあてるため建立したと伝えられ、ている。間取りは、中通り奥に8畳板敷の御霊屋、その前に12畳の読経所、右側に8畳の家老の間、御座の間には床と、花頭窓を付けた出書院を設けている。

 

永光(ようこう)寺本堂 気多(けた)神社本殿・拝殿 松尾神社拝殿 喜多家住宅
羽咋市酒井町イ11  羽咋市寺家町ク1-1 羽咋市志賀町町居4 羽咋郡宝達志水町字北川尻
竣工/寛永以降(江戸) 竣工/天明7年(1787/江戸中期) 竣工/本殿(室町)  竣工/江戸末期
★市指定文化財・伽藍配置 ★国指定重要文化財 ★県指定文化財 ★国指定重要文化財
本堂を中央に建て、東側に庫裏、書院、西側に僧堂、鐘楼、中央正面に山門を建ててこの間を回廊で繋ぐ。背後の山腹に伝燈院、後方に五老峯を築く円相型回廊式配置だが、元は大乗寺で採られていた様式を簡略化して「永光式伽藍」と称して曹洞宗建築様式の典型となった。 古来能登の一宮として崇拝されてきた神社である。本殿は類例の少ない両流造。
拝殿  承応3年(1654) 大工・山上善右衛門
若宮神社本殿  永禄12年
摂社白山神社本殿 天明7年は加賀藩の大工頭清水多四郎の代表作
桁行5間、梁間3間、入母屋造、茅葺。竣工年代は不明だが柱などの化粧材にヤリガンナを用いていること、柱の大面取などの古風な木割りや、梁や桁を入れないなど構造や手法に本殿と同じ室町末期頃の様相を呈している。中世後期に遡る拝殿の遺構は県内には現存しない。 新田義貞を後裔と伝わる旧家。寛永15年に北川尻に土着して帰農した。江戸後期の文政2年に加賀藩から十村役を任ぜられ2300石、101カ村を支配する豪農となった。家は桁行16.8m、梁間20.6m。主屋は藩主の本陣を兼ねるため、格式の高い造りである。木造平屋、切妻造、桟瓦葺。

 

2020.03.05

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