延喜式・磐城郡七座の首座
大国魂神社

福島県・いわき市平菅波宮前26

歴史
 今を去ること、およそ千三百年前、養老三年(718)に岩城国が作られました。岩城国府は、大國魂神社の東南方2kmにある根岸遺跡に置かれたと考えられています。
 朝廷は岩城国のまほろば(聖なる地、真秀羅場、枢要なる霊地)の森に、大國魂神社をお祭りしました。当時の日本六十余国ごとに、この神様をまつることによって、国の富勢と安泰を祈ったのです。
 大國魂神社の周辺は古代文化の栄えた地であり、中田横穴古墳(沼ノ内、国史跡)、八幡横穴(平高久、市史跡)天冠男子像埴輪(平下高久出土、国重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)、根岸遺跡(平下大越・岩城国郡衙跡に比定)、砂畑遺跡(平菅波)、小茶園遺跡(平山崎)、そして当神社飛び地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)などが知られております。甲塚は岩城国造の建許呂命の墳丘であるといわれています。岩城国はまもなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属することになりました。
 醍醐天皇の御世に撰集された延喜式・神名帳には、磐城郡七座の首座として記されております(927)。
 鎌倉時代になると、地頭・岩城氏の一族、國魂氏(國魂村地頭)峨再試験を掌握し、さらに南北朝時代には、神主・山名氏が、平久保・矢野目・国魂三村を領有し「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。
 室町時代には、領主・岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には磐城平藩主による修復が重ねられました。
 当時、神主・下社家・巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。
 幕末の元冶二年(1865)には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治十二年(1879)、郷社に加列し、大正十二年(1923)には県社に加列しました。
 
内藤露沾公の俳句
千々旧りて 祭り普ねし 鬼椿  露沾
ちぢふりて まつりあまねし おにつばき ろせん
 
 内藤露沾公は、平藩主・内藤家を継ぐべき人。ゆえあって襲封せず、俳諧をよくす。松尾芭蕉を支援す。