海道・かやぶき伝承会
福島県・浜通り

いわき市、古殿町、平田村、小野町、田村市、川内村、広野町、楢葉町、富岡町
大熊町、双葉町、浪江町、小高町、原町市、嘉島町、相馬市、葛尾村、飯館村、新地町

かやぶきと一番山
海道・岩城かやぶき伝承会
            事務局 山名隆弘
1・出発  これまで私は学校教育や神社奉仕、家庭教育や社会奉仕(いわき地域学會・三楽塾・文化財保護)などを続けてきました。
 しかし、ここまで来て、私が最も心を痛めていることが二つあります。
 それは、第一にかやぶき屋根の維持が不可能になるのではないかという危機感です。
 かやぶきについては、父も私もかなり執拗に新聞などに書いてきました。危機というのは、「かやでさま・かや原・資金」の三つに起因しています。
 「どうしたらいいのか・・・」と自問自答を繰り返していた時、インターネットの効用で、茨城県土浦市に、一色史彦先生という東京大学大学院(建築科)出身の方が、非常なお仕事をしておられることに出会いました。
 実は茨城県は全国で最多のかやぶきを保存しているのですが、それは一色先生のご尽力によってのことです。
 いわき民報に掲載の文章をファックスで送りましたら、すぐに返事があって、三日後には助手(松浦正夫氏)と一緒に、我が家まで駆けつけてくださいました。
 一色先生は一休さん(六百年前の禅僧・一休宗純)の研究家でもあり、「七福神の創唱者は一休さんだ」と断言しておられます。
 とうとう私は先生のご援助を得て、「海道・いわきかやぶき伝承会」という会を作ることにしました。この会の名誉会長には一色史彦先生、参与に岩城光英先生(前いわき市長、参議院議員)、会長に志賀文岳先生(社福法人松涛会・学法人志賀学園理事長)を推戴することになりました。
2・方法  会費(年額千八百二十五円)は、一日五円でかやぶき守るということにしてもらい、二千人の会員を募集しようとしております。
   この民間同志の浄財を基金として、浜通り(海道)全域のかやぶき(二十五棟ぐらいでしょうか、確実な調査はこれからです)を維持し、かや原を確保したり、かやで様の技術を伝習したりという方策を講じようというわけです。
 なぜ、かやぶきを後世に伝承しようとするのかについて述べましょう。
1・自然のものを刈り取り、人生の一世代(二十年)を守ってもらい、また、土にかえるのがかやぶき屋根です。みごとなリサイクルであります。
2・自然を畏敬し、地鎮祭で大地主(国つ神)たちに祈り、上棟際で天之御中主(天つ神たち)を讃えつつ、一棟の家を営むのが日本の伝統です。伊勢神宮はかやぶきです。いわき市平中神谷に 鎮座する出羽神社と八坂神社もかやぶきのままです。
3・かやでさまは、竹の足場と荒縄、おしぼこに大鋏、腰に吊るした砥石を自在に使ってかやを葺きます。
  化学製品は使いません。省エネの極致なのです。
4・かやは太くて長ければ良いわけではありません。むしろ細くて短い方が長持ちするそうです。かや原は毎年(いわきでは師走八日ごろ)刈り取れば、翌春にはいいかやが出ます。毎年刈らないと、ちがやが混入して、屋根の持ちが悪くなるのです。
  かや原を美しく保つことがだいじです。
5・ふきかえのときにでる古かやは、素晴らしい堆肥になります。かやを燃やした草灰は最高のこやしだといわれるのと同じです。かや原は、堆肥の供給源ともなるのです。
6・一色史彦先生の著書で学んだのですが、「二宮尊徳は、天保の飢饉で荒廃した村を復興するために、村人たちに廃屋のかやぶきを共同作業ですすめた」そうです。
  ここ半世紀でとだえている「ゆい=結」の復活が期待出来ます。
7・人間が自分の足で歩いて旅していた時代、人間がいろり火にむせびながら、自然を心に宿していた時代、そういう生活の中から真・善・美なる魂がうみ出されました。便利すぎて、私たちは胸に空洞をつくってしまったのです。
8・私たちは、以上のような意味を、かやぶきに感得できるはずです。世界の原形質  のようなものが、身近にあるかないかということは、生活の質につながります。最近の建築は、長く持って四十年。早い場合は二十五年ぐらいでガタがくるとか。こんなもったいない話はあるでしょうか。
9・イギリス・オランダ・ベルギーなどではかやぶき屋根が奨励されているそうです。「夏は涼しくて、冬暖かな」かや屋根は地球温暖化を防ぐからです。
10・防災上よろしくない、という理由で、かや屋根は消滅して行きました。しかし、一村をなめつくしたような火災で、死者が何人でたでしょうか。それよりも、現代建築は、たった一、二件の火事で家族が全滅してしまいます。
  「人命の尊重」とはあべこべの建築が横行しているのです。
3入会へ  「海道・岩城かやぶき伝承会」はまだ準備段階です。この抄稿(ホームページ)の読者の皆様、どうぞ奮ってご入会ください。
 ただし、会費振込方法や役員について、さらに当地方におけるかやぶきの分布状況などは、未完成なので、後日お知らせします。
4・一番山  第二として、私の裏山「一番山」の現況が頭痛のたねになっています。
   一番山というのは、この山が荒田目(いわき市平)一番地にあるからだというのですが、私の祖父によれば、昔ここに市が立ったからだと聞いていました。南麓に「鬼越」という地名があり「お荷越え」だろうともいわれます。
 実のところ、この山は、北側は山崎、南側は菅波、東側は荒田目に属しているのです。
東側は数千年前の汀線に接していて、海蝕によってストンと削り取られた斜面になっています。そして、この斜面ぜんぶが、四十年前までは、荒田目地区のかや山になっていました。現在は杉林になっています。
 南斜面は私の所有地ですが、やはり四十年以前は一面の櫟林でした。現在は真竹と杉の林になって荒れています。
 北側は日当たりがよくないせいか、あまり利用もされず、昔のままの樹叢になっています。
 櫟林のことです。ここは、大量に消費するわが家の焚き木の供給地でした。つまり、櫟の薪は、かやぶきと一体となって、大切に維持されていたのです。
 昭和四十年ごろ、この櫟を皆伐して杉の植林を勧める苗木屋さんがおり、将来の家計の足しにと、父は応諾しました。
 二、三本の櫟が、かろうじて残りましたがまるで人柄が変わったように、山の姿も、山の表情も変わってしまいました。
 こどものころ遊んだ秘密基地もどこかへ行ってしまい、昆虫も消失しました。
 この一番山を、元のように櫟林にもどすことと、かやぶきを維持することとは不可離な関係にあるといえるでしょう。
 櫟林の中には、山ツツジや春ランが咲き、山ウルシもたくさん生えていました。
 野ウサギも住んでいたのです。林下には、おもしろい草がいろいろにはえていたものでした。
 いったん失われたものは、容易には還ってきません。
 しかし、四十年前の記憶が忘失しないうちに、何とか復元の一歩を始めなければならないとおもいます。
 私が敬愛してやまない叔父がおりましたが、その没する直前に、残し置いた短歌があります。見舞いに訪れた私の妹に託した一枚の便箋に記されていました。
 帰りなば 裏山くぬぎ 新葉生ふる
    岡の斜りに 我を伝えよ
 帰省する度に、叔父は杉山と化した一番山を眺めたはずですが、その脳裏にはやはりくぬぎの山がのこっていたのです。
                (完)
            2005.04.18

戻る