026富田町のこと


               現在の富田町付近と                昭和10年の富田町

江戸時代の宝永年間まで、富田町は 「馬之地」 と呼ばれていました。

この時代、府中の町は香丸組、中町組、守木組、馬之地組と四組に分かれていて、この時から馬之地組は富田組と改められました。

 馬之地の由来は、国府のこの地に国中の馬を集め、その職にあった人が住んでいたからだと伝えられています。

 富田町にある平福寺のことが、寛政年間の 「府中雑記」 に次のように書かれています。

「平福寺ハ大掾国香菩提所卜云、大寺トミユ、其故ハ国香ノ墳墓、其余国香余類ノ墓石碑今こ歴然タリ……」

 また、大正初期の景況について、大正2年の 「石岡しるべ」 に記されています。

「何程もなく右へ富田町に入った。左手の壮大な構は、太平海の名酒山内又兵衛氏の邸宅である。側に俗称北向の観音堂がある正しく北に向へる故かくは名つく、この通りは一直線に金丸町に接するのだ。今はその道を辿らず、平福寺に入った。この寺の入口には、常陸大掾氏遺墟碑といふ頗る大きい石が立って居る。明治2912月の建設で、浜平右衛門氏の企てになったものだ。篆額は正三位勲四等式部次長侯爵徳川篤敬公のものしたので、撰文は重野博士である」

 伝統ある風流物は、富田のささらです。江戸時代中頃から登場の記録があり、常に先頭を歩く格式の高い存在でした。ささらは七度半の迎えを受けて出るといわれ、供奉行列の露払いを常に務めます。太い角の老い獅子と尖った角の若獅子、角のない女獅子の三匹の獅子が、笛を主体とした優雅な音律で舞います。町内には保存会が結成され、茨城県の無形文化財に指定されています。

 昭和5241日、住居表示法施行により富田町は、国府四・五・六丁目、貝地二丁目に分かれました。

 富田町の北向観音堂は総社宮の境内にあった神宮寺が元禄年間に富田町地内に移された時、この堂も同時に移築されたと云われています。堂内に十一面観音菩薩像が安置されています。
 府中誉酒造は嘉永7年に初代山内権右衛門が創業。銘柄には府中誉、太平海の他、幻の酒米「渡舟」を探し当て、栽培して醸造した「渡舟」がある。


         現在の富田町の通り                富田町の北向観音堂               府中酒造の蔵と長屋門


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