020守木町のこと


   現在の守木町付近と昭和10年の森木町

「かつての守木町には、何でもあった。郵便局、電話局、交番、専売局などの役所関係から、医療機関や教育機関、神社仏閣。商店はそれこそ一通りあって、日常の物はほとんどここでそろったものだ」 とは、昭和初期を知る古老の回想です。

 江戸中期の古文書「府中雑記」 には、「守木町というのは、千手院の古い書記に……慶長中頃、六郷兵庫頭殿へ宮下富士山の論があったとき、その文に先年守木殿何々のことと証拠のために書いてある。この先年とあるのは天正の未だろうか、しかるに守木殿と書いたことを思えば由々しき人だろう」とあります。

 守木町の名は、中世に住んでいた常陸大掾氏の家臣・守木氏にあやかったものです。ちなみに、中世の府中六名家の名をとった香丸町・金丸町・宮部の地名もあります。

 江戸期に入って、水戸街道府中宿の目抜き通りは、大きく香丸組と中町組、守木組の三つに分けられました。幕末から明治にかけて、商業活動は年々活発になり、守木町は街としての体裁を整えてきます。この時期、町名は守木町のほか森木町、森ノ木、守ノ木などと書かれ、明治・大正期になって森木町と統一されます。

 森木から守木へと戻ったのは大正4年・御大典のときですが、常陸国総社宮の例大祭では今も森木町を名乗っています。

 守木町の屋台は、大勢の芸妓に彩られひときわ艶やかな出し物でした。

 屋台の彫刻・飛龍の裏側には 「嘉永五年六月 棟梁小井戸彦五郎 彫師後藤源之助 塗師伊藤長五郎」 の刻銘があります。およそ150年前に作られたもので、昭和54年の年番に出て以来その後の登場はありません。

 守木町は、石岡の郵便局発祥の地でもありました。当地の豪商・醸造家の村田宗右衛門によって、明治63月に創設されました。以来、昭和8年石岡郵便局が普通局になるまでの60年間、村田家父子4代が局長を務めてきました。

 さらに守木町は、石岡町の電話開通のキー局にもなりました。明治422月、石岡郵便局長・村田氏邸の成趣園公園で、盛大な開通式が行われました。このときの電話加入者数は40、そのうちの4分の1が醸造業者でした。

 守木町は住居表示法施行により、昭和5241日、国府三丁目・六丁目となりました。


国府公園              金刀比羅神社             清涼寺

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