019・お祭りのルーツ

今から150年の昔、天保年間に書かれた「府中町絵図」 には、石岡のお祭りのルーツを物語る町の様相が描かれています。町の中央を南北に貫く香丸・中町・守木の大通りとその中央へ直角にぶつかる土橋通り。2本の主要道路を取り囲むように、16の町内が名を連ねています。

 明治35年に始まった年番制度は、その当時の主要町内が参加し、小町を理由に辞退した木之地町を除くと、まったく同じ形で今日まで引き継がれています。江戸時代から明治、大正、昭和と続いてきたこれらの町名は、昭和51年以降の住居表示によって消えたものの、祭りによっていまだ名を残しています。

 絵図に描かれた府中の町の幾何学的な道路網から、明らかに人為的な町立てが行われたことが読み取れます。主要道路の突き当たりには、陣屋門と千手院が町をにらむように鎮座し、いくつもの寺院と神社が、連綿と町人たちの暮しを見守ってきました。

 この通りが祭りの舞台となり、約300年ものあいだ祭りの出し物が行進し、大勢の見物客たちが集ったのです。江戸時代の総社宮祭礼の様子は、当時の記録から知ることができます。それによれば、延享年間に始まった奉納相撲は人気が高く、祭りのとき、多くの人が参拝もせずに観戦にいってしまうとあります。当時、土橋通りからの参道はなく、宮下の正面から男坂の石段を登って参拝したことが、この絵図からも分かります。

 町のへソにあたる地点には、八坂神社の天王社が描かれています。この祭りは 「祇園祭り」 であり、例年6月に町をあげての祭礼が行われました。当時の祭礼行列一覧には、富田のささらを筆頭に、各町内の踊りや風流物が名を連ねています。これらの出し物が府中の町を練り歩き、幕末以後の経済的発展を背景に、石岡のお祭りは年々華やかになっていったのです。

                                          写真の地図は石岡市史より

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