001・国府いしおかの物語

昔むかし、石岡は常陸国の中心地・国府でした。国分寺と尼寺があり、多くのお坊さんと役人がいて、まちはたいへんにぎやかでした。

 ある年、京都から藤原宇合(ふじわらのうまかい)という若い国司が来て、常陸風土記という本を作りました。このとき宇合と恋におちた石岡の娘がいて、宇合が京にもどるとき歌をおくりました。

 庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまうな

 この歌をきざんだ石碑が、民俗資料館の隣に建っています。

 にぎやかだった国府の時代は長く続きましたが、平安時代に入って大変なことが起こりました。

 筑波山の西にいた平将門(たいらのまさかど)が攻めてきて、国府をすべて焼払ってしまったのです。役人を泥の上であやまらせ、女のお坊さんをしばりつけ、国分寺の宝物をすべて持ち去さってしまいました。

国府が焼かれてから、300年ほどして、豪族の一人が石岡小学校のあたりにお城を作りました。土手を高くし、その周りにお堀をまわしました。そこに住すんだのは、大操氏(だいじょうし)という偉い人で、400年ものあいだ、その一族が常陸国を支配しました。

 お城全体は、500メートル四方のりっばなものでした。

 戦国時代の最後のころ、府中城を佐竹一族が攻めてきました。その軍勢は、たちまち府中城を攻め落として、火をつけました。殿様たちは府中城の抜け穴から逃げましたが、鈴姫様だけが逃げおくれて、お堀のそばまで追いつめられました。水に飛び込んで逃げようとした鈴姫様に、佐竹軍の一人が矢を放ちました。すると、その矢が鈴姫様の右目にささり、そのままお堀に落ちて死んでしまいました。

 府中城はほろびて、そのあたりには土手と池だけがのこりました。

 池はいつしか鈴ケ池とよばれ、そこにいる魚はすべて片目だったので、まちの人たちは不思議に思いました。

              

 
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